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瀬川小学校の今

花丸 6年生ブックトーク(会津の歴史について)

 5月25日(水)、田村市立図書館より橋本先生が、会津の歴史に関する本をどっさり持って来校して下さいました。そして、子供達に本を見せながら会津の歴史についてお話をして下さいました。
 6年生は、来月、23、24日と会津旅行に出かけます。会津の歴史を主に学習してきます。しかし、ただ行くだけでは、何にも分かりません。そこで、事前にある程度勉強しておこうというわけです。今日のブックトークを契機として、先生が持って来て下さった本をできるだけ読んで、旅行の日を迎えてほしいと思います。(この旅行には、5年生も行きます。5年生は、主に伝統工芸について学んできます。)
  
  
↓ 橋本先生が持って来て下さった中に、このような本がありました。
 
 この本の表紙になっているのが、「郡長政(こおりながまさ)」という会津藩の少年です。郡長政とは、いったいどんな少年だったのかというと・・・。
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 郡長政は、会津藩家老、萱野権兵衛(かやのごんべえ)の次男。父が戊辰戦争の会津藩の責任を一身に背負い、切腹したことから家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名乗りました(先祖の姓という説もあり)。
 
 成績優秀だった長正は、選ばれて小笠原藩(今の福岡県)の育徳館に留学。学問や武道など精神鍛練に励む毎日を送っていましたが、ある日郷愁を覚えた長正は、母に会津の干し柿(みしらず柿)が食べたいという旨を手紙に書き送ります。しかし、届いた返事は次のような厳しい内容でした。

おまえは斗南(会津藩がとりつぶされて流された青森県下北の地)へ行った人々の苦労を知っていますか。会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。再びこのようなことを言ってよこすならおまえは萱野権兵衛の子ではありません」

 長正はショックを受けると同時に深く反省し、戒めとしてその手紙を大切に持ち歩いていましたが、ある日館内で落としてしまいます。それを拾って読んだ小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られ、深く責任を感じた長正は死んで恥をそそぐと表明。そして一同の見守る中で切腹して果てました。
会津士魂を辱めたと感じた長正にとって、この出来事は『ならぬことはならぬ』という教えの中の『ならぬ』ことだったのです。   

 長政の墓は、会津若松市の「天寧寺」にあります。     (八重のふるさと福島県より)