瀬川っ子 頑張っています!

2015年8月の記事一覧

晴れ 夏の思い出

 1ヶ月ぶりに南会津に帰りました。年老いた母親自慢の畑に野菜を収穫に行く道々で野菜や草花の写真を撮りました。いくつか紹介します。
   
 ヒャクニチソウ、ケイトウ,芙蓉などの花々。
 
 夏の主役のひまわり。たんぽぽの花もよく見るときれいですよね。
   
 アスパラガスの実、カボチャとナスの花です。そして、これは、何か分かりますか?
 
 これは、サトイモの葉っぱと花豆(正式には、ベニバナインゲン)です。花豆は、高原の気候に適した作物です。船引町でも栽培しています。花は、赤と白があります。白は、変種で、できる豆も白色です。花をアップで撮影すると・・・・こんな感じです。
 
 子どもの頃は、「花嫁ささぎ」と呼んでいました。赤と白の花が咲くので、おめでたい花嫁さんのようだというところからそう呼んでいたのかなと想像します。
 
 畑からの帰り、道ばたにはコスモスの花も咲いています。
 お盆が過ぎ、秋の足音がもうそこまで近づいています。

花丸 校庭整地ありがとうございました。

 8月17日、お盆休みを終えて合奏部は朝から練習に励んでいます。校庭を見ると、きれいに整地がされています。8月15日に盆踊りが行われ、昨日後片付けと共に整地していただいたようです。ありがとうございます。明日からは、陸上部の練習も開始です。とても良い環境で練習をスタートできます。

虫眼鏡 校長の自由研究④(大倉神社)

 旧街道を少し進んで行くと左手の小高い場所に「大倉神社(おおくらじんじゃ)」があります。
大倉神社はもとは、移川近くにあったそうですが、昭和31年頃に現在の位置に移されたということです。なぜ、移されたかについては、台風等による移川の増水でたびたび被害にあったからではないかという話がありますが、真相はどうなのでしょうか。
 
 鳥居の横には、やはりいくつか石碑が見られます。
 
  まず「甲子(きのえね)」」の碑ですが、調べて見ると、「甲子(きのえ・ね)の日に、禍を転じて福を授けてくれる大黒天を祀り、夜遅くまで飲食をともにしながら語り合う行事であったそうです。大黒天の使いとされた子(ねずみ)、子の刻、つまり真夜中まで起きていたようです。甲子塔は、六十年に一度めぐってくる甲子に合わせて石碑を建てることが多かったようです。次に「巳待塔」という碑について調べて見ると、己巳(つちのと・み)の日に、講が集まって夜遅くまで精進するものだそうです。主尊は弁天(べんてん)。七福神の一人で弁財天とも呼ばれ、水の女神としても知られています。水と巳(へび)とは関連があり、水害などに悩まされた地方で、よくこの巳待ちが行われたと言います。弁天を祀って、水を鎮めるという意味があったのでしょう。ここにも、旧街道の碑でまつられていた弁財天が登場します。さらに、養蚕の盛んな土地では蚕を食べる鼠避けとして蛇(巳)神は養蚕農家の守護神であったそうです。尚、巳は、弁財天の使いとされていました。子(ねずみ)と巳(へび)をまつった碑が近くにあるというのが興味深く感じます。

花丸 お盆の時期になります。

 今日は、8月12日、お盆の時期になります。合奏部の練習は、13日から16日までお盆休みとなります。家族との団らんの時間をもったり、地域の一員として盆踊りの太鼓打ちなど進んで参加したり夏休みならではの楽しい時間を過ごして欲しいと思います。午前中の合奏部の練習が終わって静かになった学校を回ってみると、夏休みも終盤となったこの時期にも関わらず、美しい環境が保たれていることを強く感じます。環境整備に力を注がれている方々に感謝です。

 まず、花壇の様子は・・・ こんなです。
 
  
  
 
 そして、学校農園は、こんな様子です。
   
 実は、学校農園は、草が伸び放題の状態でした。なんとかしなければと思っていたところ、なんと、今年度、「学校支援地域本部事業」で「畑の先生」としてご指導いただいている橋本先生がご夫婦で日曜日に来校され、きれいに除草してくださったということです。ありがとうございました。さらに昨日は、トウモロコシの成長が良くないということで、追肥もしていただきました。本当にありがとうございました。

虫眼鏡 校長の自由研究③(旧街道に建てられた碑)

 自由研究①で記載した旧街道には、いくつかの石碑が今も残っています。
 今回案内していただいた中には、まず、こんな物がありました。
 
 これは、自由研究①で記載した追分の道標近くに立つ塔です。前面には、「廿三夜塔(にじゅうさんやとう)」と彫ってあります。今まで目にしたことのない塔でしたので、調べてみました。それによると、これは、月待塔(つきまちとう)とよばれるもので、 特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行いその記念として造立した塔であり月待信仰塔ともいわれるものだそうです。尚、月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事だそうです。室町時代には既に行われており、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したそうです。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられるそうです。私が生まれ育った会津にも所々に残っているということで、もう何度か目にしているのかもしれません(見ようとしない眼には、何も見えません)。新舘の廿三夜塔も江戸時代に建てられたものでしょうか。
 旧街道を新舘から大倉方面に進むと、藪の中に2つの碑が建っています(ただ、道を歩いているだけでは見えません。面川さんが、「ここに碑があるんだ」と草をかき分けて見せてくださいました。)

 前面に「寛政七年 秋葉大権現 乙卯十月日」とあります。秋葉大権現とは、
「火除けの神」だそうです。

 この碑の横には・・・

 前面には、「享和元年 辨才天供養 辛酉十二月日」とあります。前述した秋葉大権現の碑が、寛政7年(1795)、この辨才天供養碑が享和元年(1801)ですから、この碑は、6年後に隣りに建てられたということになります。共に江戸時代後期の造立です。辨才天は、辨財天、辨天等とも称され、音楽、知恵、財物、また、水の神として信仰された女神ですが、この碑を造立した当時の人々の願いや思いは、何だったのでしょうか。