瀬川っ子 頑張っています!

虫眼鏡 校長の自由研究③(旧街道に建てられた碑)

 自由研究①で記載した旧街道には、いくつかの石碑が今も残っています。
 今回案内していただいた中には、まず、こんな物がありました。
 
 これは、自由研究①で記載した追分の道標近くに立つ塔です。前面には、「廿三夜塔(にじゅうさんやとう)」と彫ってあります。今まで目にしたことのない塔でしたので、調べてみました。それによると、これは、月待塔(つきまちとう)とよばれるもので、 特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行いその記念として造立した塔であり月待信仰塔ともいわれるものだそうです。尚、月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事だそうです。室町時代には既に行われており、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したそうです。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられるそうです。私が生まれ育った会津にも所々に残っているということで、もう何度か目にしているのかもしれません(見ようとしない眼には、何も見えません)。新舘の廿三夜塔も江戸時代に建てられたものでしょうか。
 旧街道を新舘から大倉方面に進むと、藪の中に2つの碑が建っています(ただ、道を歩いているだけでは見えません。面川さんが、「ここに碑があるんだ」と草をかき分けて見せてくださいました。)

 前面に「寛政七年 秋葉大権現 乙卯十月日」とあります。秋葉大権現とは、
「火除けの神」だそうです。

 この碑の横には・・・

 前面には、「享和元年 辨才天供養 辛酉十二月日」とあります。前述した秋葉大権現の碑が、寛政7年(1795)、この辨才天供養碑が享和元年(1801)ですから、この碑は、6年後に隣りに建てられたということになります。共に江戸時代後期の造立です。辨才天は、辨財天、辨天等とも称され、音楽、知恵、財物、また、水の神として信仰された女神ですが、この碑を造立した当時の人々の願いや思いは、何だったのでしょうか。