丸森日誌

日々の雑感をつれづれに・・・

「はい」に込める思い(その3)

そして、この卒業式で卒業生の「はい」の返事を、一番に楽しみにしているのは、間違いなく親である。6年前、1年生として入学した時にも「はい」と返事をした。あの「はい」の返事で始まった小学校生活が、6年経ち、卒業する時の「はい」の返事で終わるのである。親はその二つの「はい」の違いに、我が子の成長を感じるのである。だからこそ、卒業生はこの「はい」に、「聞いてください、僕はこんな『はい』を言えるまでに大きくなりましたよ。」「私の『はい』はどうですか、立派でしょう。今まで本当にありがとうございました」という思いをしっかり込めて、親に最後の「はい」を届けなければならない。たかが「はい」の返事ではあるが、卒業式の呼名で返す「はい」の返事には、このようなたくさんの思いを込めて行わなければならないのである。

「はい」に込める思い(その2)

6年生が6年生として、学校の中に存在する一番の理由は、下級生に手本を示すこと。下級生に手本を示せない6年生は、6年生としての責任を果たせていない。6年生は、その覚悟を持って、下級生の前に立たなければならない。本校の6年生21名は、この一年間、常にそのことを自覚し、そして、そのように行動してきた。立派な6年生である。その6年生が、最後の最後に下級生のために手本を示す場が、卒業式である。その中で、堂々と胸をはって歩き、しっかりと礼をしたり歌ったりすることこそが、下級生のためである。そして、そこで最後に聞かせる「はい」の返事は、その場にいるどの下級生達も決して真似できないような返事でなければならない。下級生に、(ああ、あんな返事なら、僕の方が上手に言える)などと思わせてはいけない。(なんて、すばらしい返事なんだ、あんな返事を私も言えるようになりたい)そう思わせてこそ、6年生の卒業式における「はい」の返事の姿だと思っている。(続く)

「はい」に込める思い

卒業生に返事の指導で話した内容である。学校生活の中では、自分の名前を呼ばれる場面はいろいろある。朝の健康観察から始まり、授業中の指名もあれば、廊下で呼び止められることもあろう。そういう時の「はい」という返事は、名前を呼ばれた時の返事である。しかし、卒業式の中で行う返事は少し違う。卒業式の中で、担任が呼名する前にこう話す。「卒業証書を授与される者」。もっと丁寧に言えば、「小学校6カ年の課程を修了し、卒業証書を授与される者」。つまり、6年間の小学校生活で、学ぶべき事を学び、身につけるべき事を身につけ、この度、小学校を卒業することを認められた者は、これから名前を呼ばれる者たちである、というわけだ。だから、続けて名前を呼ばれた者は、「今、名前を呼ばれたのは、わたしです。」「ぼくがその者です。」と式場内の人たちに告げるように返事をしなければならない。廊下で呼び止められて返す返事とは全く訳が違うのである。(続く)

すごくいい話

昨日、2年生が郡山へ電車を使って校外学習に出かけた。郡山で活動を終え、郡山駅から船引駅までの電車に乗った時のことである。行きは空いている座席がほとんどないくらい混んでいて、ずっと立っていった。帰りは、行きほど混んではいなかったものの、空いている座席はあちこちで、2年生の子どもたちがまとまって座れる状態ではなかった。仕方がないので、それぞれ空いているところに分かれて座ろうとした時、近くに座っていた男子高校生が声をかけてきた。「ぼくは向こうに座りますから、ここ、座ってください。」そう言って、座席をゆずってくれた。そのお陰で、2年生の子どもたちは近くにまとまって座ることができた。その男子高校生は同じ船引駅で降りたそうである。今どき、こういう高校生もいるのである。それも、同じ船引町にいると知っただけで、すごくうれしくなった。2年生の子どもたちは、この体験をきっと忘れずに、自分たちもこんな素敵な高校生になりたいと思ったにちがいない。

人としての最高の喜びは・・・その2

かつて、手話通訳などテレビで活躍し、その後、ステージパフォーマーとして講演会を行うことをしていた丸山浩路さんという方がおられた。その方が話されていたことである。「身体に障がいをもたれている方の中には、自分が不自由な生活をしているのは、周りのサポートが足りないからだ、と言う人がいる。実際にそうなのかもしれない。しかし、そうやって、何々が足りない、もっと何々してくれ、と周りに要求ばかりしている限り、その人は幸せにはなれない。そして、人としての最高の喜びを知らないまま、死ぬことになる。人は、身体に障がいを持っていようが、健康であろうが、子どもでも、大人でも、若者でも、お年寄りでも、どんな人でも、自分が誰かの役に立っているということ、自分の存在が他の人の喜びにつながっていること、それを感じることが人としての最高の喜びなのである・・・」自分がいることで、自分が何かをすることで、誰かが喜んでくれる。自分が生きていることで、誰かの助けになる。それこそが、人が人として生きていける力なのかもしれない。

人としての最高の喜びは・・・

私たち人間には欲がある。だから、日々、ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい、あれがほしい、これがほしい・・・と、その欲を満たすために心惑わせながら生きている。しかし、生きていると、自分の思うようにはいかないことがかなり多いことに気付く。多いどころか、ほとんどが自分の思うようにいかないのではないかと思う。。それもそのはず、この地球上には72億人もの人間がひしめき合い、生きている。その全ての人のそれぞれの欲がその人の思うようにかなうはずがないのである。だから、自分の欲や願いがかなうことはほとんどなく、私たちは思っていない、願っていないような状況で生きている。それが当然であり、それが当たり前であり、それがみんなに当てはまる事実なのだ。それなのに、私たちの周りには、自分の思うとおりにならないことに腹を立てたり、文句を言ったりして、自分の思うことを無理に通そうとする人がいる。自分が不幸なのは他の人のせいであり、もっと自分のためにしてほしいという要求をする。しかし、自分のために、周りにああしてほしい、こうしてほしいと求めてばかりいる限り、その人は人としての最高の喜びは味わえないように思う。(続く)

人間の究極の幸せとは

日本理化学工業という会社がある。チョークなどを製造している会社である。その会社の基本理念に「人間の究極の4つ幸せ」がある。それは、①愛されること ②ほめられること ③人の役に立つこと ④人に必要とされること である。これは創業者が、ある禅寺のお坊さんから聞いた話だそうだ。そして、この4つの幸せは、「働くこと」で得られるという。一生懸命働くことで、周りの人に認められ、愛され、ほめられ、役に立って、必要とさせる。学校でもそうだ。先日、6年生を送る会が行われた。6年生の子どもたちは、この一年、学校のため、下級生のために一生懸命取り組んできた。そのことに対して、下級生達は心から感謝している。きっとあの会を通して、6年生の子どもたちは幸せを感じていたに違いない。そして、あの会を企画運営した5年生の子どもたちも、自分たちが一生懸命準備した会で、喜んでくれる6年生の姿を見て、きっと幸せを感じていたに違いない。そして、自分たちがこれからもっともっと頑張っていこうと気持ちを新たにしたことだろう。

全員登校日

学校をお休みする場合、風邪や発熱などの病気による欠席、お家の都合でお休みする事故欠、そしてインフルエンザなどの病気による出席停止などがある。出席停止は欠席扱いにはならない。しかし、学校に登校していない(できない)という点では、他の欠席と同じである。本校の児童は98名である。この98名が、一人も休むことなく、全員登校した日を「全員登校日」としてカウントしている。4月7日から今日までで、この全員登校日は「64日間」になった。今日も全員登校した。授業日は、今日で181日あった。およそ3日に1日は98名全員が登校していることになる。これは、すばらしいことだと自負している。本校の児童は、本当に休まない。毎日、学校にきちんと登校してくる。これは、感謝の何物でも無い。なぜなら、私たち教師は、子どもたちが学校に来てくれるから、授業ができ、指導ができるからだ。学校に来てくれないことには、何も始まらない。だから、子どもたちに感謝。そして、毎日当たり前のように学校に子どもを送り出してくれる保護者の皆さんにも。

その場になってわかること

入学説明会で、来年度入学する園児たちを、今の1年生たちがお世話した。Aくんは、担当の女の子が描いた絵を「上手だね」とほめて、その子を喜ばせた。Bくんは、なかなか描けない男の子に、自分がお絵かき帳に描いた絵を見せてあげて、最後まで寄り添った。Cさんは二人の子を担当し、時間中あちらこちらと忙しそうに駆け回った。他の子どもたちもみな同じようにやさしく接してあげていた。きっと園児たちは、お世話してもらってうれしかった、楽しかった思い出をもって、4月に入学してくるに違いない。そして、1年生の子どもたちも、今回お世話をしたことで、来年2年生になる自覚や、今まで自分がお世話してもらう立場だったことを振り返るにちがいない。そういうことは、やはり、その場になって初めてわかることなのだ。だから、体験させることは大事なのだ。最初からうまくできなくてもいい。うまくできるかどうかより、その場に立つ経験こそを大事にしたい。

親は子の鑑

2日続けて、入園説明会、入学説明会と開催した。どちらにも共通していたのは、保護者の皆さんが、学校からの説明をきちんと聞いていたということである。当たり前のことのように思う方もいるかと思うが、巷にはこういう説明会に参加された保護者の方が、隣の人と私語をしながら聞いているところもあるという。しかし、本校・本園ではそういう保護者の方は一人もいなかった。みなさん、説明中はお話などせずに、こちらの話を聞いてくださった。ありがたい話である。そして、幼稚園でも小学校でも、それぞれ役員さんを決めた。その時も、それぞれ進んで快く引き受けてくださった。これもまたありがたい話である。親は子の鑑という。こういう保護者の方々に育てられている子どもたちである。みな、明るく元気で、そして素直である。4月に入学・入園してくるのが楽しみになった。

世界の果ての通学路

世界には、日本の感覚では信じられないような環境で、学校に通っている子どもたちがいることを、「世界の果ての通学路」というDVDをみて知った。ケニアの少年は、サバンナ地帯を、ゾウなどの野生動物たちに警戒しながら、片道15kmを2時間小走りでかけて通っている。モロッコの山岳地帯に住む少女は、月曜の朝、片道22kmを4時間かけて全寮制の学校に通い、金曜の夕方同じ道を歩いて帰ってくる。なぜ、そのような大変な思いをしてまで、学校に通うのか。それは、「夢をかなえたいから」。学校で学ぶことで、自分の夢がかなえられることを信じ、そして、そのためにひたむきに努力しているのだ。その姿に、心が洗われる思いがした。そして、日本の子どもたちの中にも、その子どもたちと同じように、自分の夢や願いをかなえようと毎日学校に通っている子どもたちがきっといるに違いないと思った。その期待に、自分は応えられているか・・・と身が引き締まる思いがした。

巧遅と拙速

巧遅(こうち)とは、うまく上手にできても時間がかかって遅いこと。拙速(せっそく)とは、その逆で多少つたなくて上手ではないけれど速くできること。何か取り組んでいると、この巧遅と拙速が問題になる。いろいろな場面もあり、取り組んでいる内容によって一概に言えないのかもしれない。しかし、ことわざでは「巧遅は拙速に如かず(しかず)」。つまり、拙速の方がよいということになる。考えてみると、何か取り組む時には、大概期限が決められていることが多いように思う。だから、いつまでにこれこれを仕上げるようなことになる。その場合、最優先されるのは、何はともあれ決められた期限までに必ず間に合わせる(仕上げる)ことである。出来不出来はある意味その次だ。子どもたちの中にはじっくり時間をかけて取り組みたいというタイプの子どもはいる。こだわりをもって自分らしさを追究することはとても大切なことである。しかし、一方で与えられた時間を意識し、ゴールまでの見通しをもって取り組み、ある程度形にして間に合うことも大事なことである。また、速ければなんでもいい訳でもない。そういう意味でも、子どもたちには、いろいろな経験を通して、生きていく術を身につけさせたいと思う。

インフルエンザについて

インフルエンザについて詳しく話を聞く機会があった。興味深かったのは、インフルエンザウイルスに限らず、ウイルスというものは、自分単独では生存できないという点である。そこが細菌との大きな違い。だから、インフルエンザウイルスも風邪の原因のウイルスも、みな人間の細胞に付着することで生存するのであって、空気中に漂っているものではない。人混みの中がキケンなのは、人が集まれば、せきやくしゃみに混ざって飛び交うウイルスを吸ってしまう確率が高くなるから。それから、インフルエンザウイルスは、年間通じて存在する。ただ、冬場に罹患する人が増えるのは、気温の低下や体力の低下、空気の乾燥など、ウイルスにとって居心地の良い環境になるため。そして、やはりインフルエンザや風邪にかからないためには、体内に入ってきたウイルスをやっつけることができるだけの、免疫力を高めておくことが一番大事だということ。その基本は、栄養・運動・休養だということ。

雪雑感

今年の雪は、昨年のような一気にどかっと振るのではなく、粉雪状態で長時間降り続けるパターンが多いように思う。この冬で3回ぐらい続いている。弱い雪なので、まだ大丈夫かな?と思っていると、いつの間にかすごく積もっていることになる。しかし、15cm以上降り積もると、田村市で提携している地元の業者の方々が除雪してくれる。主要道路の除雪が終わり次第、学校の給食車の通路の除雪に入ってくれる。これは、すごくありがたい。また、地域の方々、保護者の方々も、子ども達の通学路の除雪をしてくださる。これもすごくありがたい。学校の職員だけでは、到底そこまでは手が回らない。ただただ感謝である。猪苗代のスキー場の方が、こんな話をしていた。今年の冬は、年内にたっぷり雪が降った。これは例年にはないことで、もしかしたら、早く雪が降った分、雪が降り終わる時期も早まるのではないかと。雪が全く降らないのも困ることだが、それでも早く溶けて暖かくなるのは、うれしいことである。あくまで仮定の話ではあるが・・・。

もうすぐ節分

昔から年中行事と呼ばれるものがある。正月、七夕、お月見などなど。この時期は、節分であろう。本来なら、年中行事は各家庭で行われるものであるが、今の時代、家庭ではやらなくなってきているものが増えているように思う。かくいう我が家も最近は月見や七夕はやっていない。ただ、豆まきだけは行っている。我が家は煎った大豆を半分まいて、残りを食べている。一方、学校では拾いやすいように落花生をまいている。今年も、児童会で豆まき集会が行われる。子ども達に日本の年中行事を伝えていくためにも、学校での取り組みはやはり意味があるのだと改めて思う。

流行り物

トップページの南っ子NEWSを見ていただければ分かる様に、子ども達の生活の中には、その時代時代の流行り物が顔を出す。例えば、買い物に行けば、至る所に「妖怪〇〇〇〇」だらけだ。こんなことがあった。幼稚園で新しくグループ分けをした時、グループごとに名前を付けさせたら、みな妖怪の名前のグループになったそうである。しかし、それも子ども達なりに理由があって、その名前の妖怪は、自分たちを守ってくれる妖怪なのだそうである。いやはや、このブームはどこまでも続きそうである。

脚下照顧

6年生の体験教室でお世話になったお寺の玄関口に書かれていたのが「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」の文字。意味は、「自分の足元を照らして、自分を顧みる」。わかりやすく言うと、脱いだ靴に自分の心の有様が現れるということ。脱ぎっぱなしのばらばらの靴は、自分の心も落ち着きをなくし、乱れている。だから、脱いだ靴をそろえることで、自分の心もそろえる。学校での生活の中でも、同じような意味で「乱れた机は心の乱れ」という状態がある。子ども達は、教室を移動する時、自分の席を立つ時、机の上をきれいにして、きちんと椅子を閉まっていく。しかし、机の上に物が出しっぱなし、椅子もしまっていないような状態は、その時のその子の心が落ちつかず乱れているからである。考えてみると、私たちの心は目に見えないのだけれど、実は言葉遣いやしぐさ、行動など目に見える形で現れるのである。

新しいことに取り組むには・・・

 卒業まであと〇〇日の掲示物が、6年教室にある。そのカレンダーを見ながら、1日1日を大事に過ごしていくことだろう。その卒業式に向けて、ピアノの伴奏練習に取り組んでいる子ども達がいる。その中の一人が、休み時間に音楽担当の先生に、練習をみてもらっていた。弾き方から指の動かし方まで、細かいアドバイスをいただきながら頑張って練習していた。
 何か新しいことに取り組むということは、それまでの何かを変えないといけない。その子も、休み時間を今までのように遊ばずに、ピアノ練習に取り組んだ。きっと、家でも、今までのテレビやゲームの時間を減らして、その分、練習することだろう。
 健気に、ひたむきに努力する子どもたち。応援せずにはおれない。

夢を語る場所

巷を賑わせている事件の少年は、小学校の卒業文集の自己紹介に「将来のゆめはない」ように書いていたそうである。その後、中学へ進学するも、同じ学級の仲間からも、存在感が感じられないような人だったようである。これらのニュースを見て、かわいそうになった。なぜなら、学校という場所は「夢を語る場所」でなければならないはずだからだ。確かに、現実は厳しい。けれでも、自分の将来に夢を描き、希望を持って生きていくことの大切さを学ぶところが学校なのだ。そして、そこにはその夢を語らう仲間がいる。学校という集団生活の中で、共に助け合い、支え合うから、自分は多くの人に助けられていることを知り、そして、自分も誰かの役に立っているという喜びを味わう。そういう自己有用感を味わわせるところが学校なのだ。決して、共に学ぶ仲間の存在を軽視してはならないのだ。授業中、隣で具合が悪そうにしている友達を見つけ、そのことをそっと先生に教えに来てくれる子どもがいる。そんな友達思いの優しい仲間に囲まれて、素直に育つ子どもたちの姿にほっとする。

立志式に思う

今日、田村市では立志式が行われた。昔の元服にちなんで、十五を祝う行事として、将来の決意や目標や明らかにする式である。また、孔子の論語にも「吾十有五にして学に志す。(私は十五歳のとき学問に志を立てた。)」とあるように、中学という義務教育を卒業して、いよいよ学ぶ目的を自分自身でしっかり持つ立場になることへの覚悟を決める機会でもある。この立志式のように、自分の生き方について考える節目のようなものは、やはり大事なのだと思う。20歳で迎える成人式もそうである。10歳になる4年生には、2分の1成人式というものもある。そして、6年生にとっては、卒業という大きな節目が待っている。私たちは毎日の目の前のやるべき事を追うばかり、ついこれまでの自分の生き方を振り返ることはなかなかない。しかし、時に今の自分を振り返り、お世話になっている人たちへ感謝の気持ちを持ち、自分の向かっている方向を確かめることを忘れてはならない。