丸森日誌

日々の雑感をつれづれに・・・

続 出会いと別れ

出会いは大切。ならば、やはり、別れも大切になる。別れは寂しい。その人との関係が深ければ深いほど、別れがたくなる。そして、別れた後、深い悲しみが心に残る。ぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。時に、なかなかその悲しみから立ち上がれないことさえある。中国の昔のお話。子どもを亡くした母親が、あまりの悲しみから、その子の亡骸をずっと抱いたままいた。そのうち、亡骸は腐りかけ、それでも母親は放そうとしなかった。そこで、一人の僧が、その母親に「おまえの死んだ子を生き返られてあげよう」と話しかけた。母親は「どうしたらよいか」尋ねると、「悲しみを知らない人を探すことができたら、生き返られてあげよう」と僧は答えた。そこで、母親は、街中の家々を尋ね歩き、悲しみを知らない人を探した。しかし、ある家では、家族を事故で亡くし、ある家では、家族が重い病で苦しんでいた。親を幼い頃に亡くして、独りで生きている子どもにも会った。自分と同じように幼い子をなくした人にも出会った。そうして、探し歩くうちに、その母親は気づいた。それは、悲しみを背負って生きているのは、自分だけでないことに。そして、その母親は、声をかけた僧にお願いして、亡くなった我が子の弔いをしたのだった。悲しみは、つらい。しかし、その悲しみをきちんと受け止めることで、私たち人間は、他の人の悲しみを感じることができるのだ。相手の気持ちが理解できるのだ。そういう意味で、どんな別れも、きちんとお別れすることが大事なのだと、私は思う。

出会いと別れ

この時期は毎年のように、出会いと別れが繰り返される。今までどれほどの先生方や子どもたちと出会い、そして別れたことだろう。生きていれば、この出会いと別れは避けて通れない。そういう意味で、出会いと別れはすごく重要な意味を持つ。結論から言おう。それは、「運命は、誰と出会ったかで決まる」。およそ70億人が住むこの地球上において、同じ学校、同じ職場でその人達と出会う確率は、ものすごく小さいはずである。それは、まさに奇跡的な出会いと言える。そして、その人と出会ったことで、間違いなく自分の人生は影響を受け、変化していく。そういう意味で、それは運命的な出会いとも言えよう。時に、出会いたくないと思う人との出会いもある。それでも、その人と出会ったことで、某かの影響が、自分の人生にあるとするならば、それもやはり運命の出会いなのだ。「運命は、誰と出会ったかで決まる」そう考えると、せっかく運命的な出会いをしたわけだから、どんな人との出会いも、しっかりと受け止めたくなる。自分が主役のこの人生の舞台に、わざわざ登場してくれた全ての人との出会いを、まずはしっかりと受け止めたくなる。それが、「感謝」だ。自分と出会ってくれてありがとう、という気持ちをもつことだ。そのように、出会う人に感謝の気持ちをもって生きていく人の人生が、素晴らしい人生にならないはずがない。私はそう思っている。

チェンジするチャンス

毎年、思うことだが、6年生たちは卒業式を終えて、どんな気持ちなのだろうか。今まで通った小学校を去る寂しさだろうか。お世話になった先生方とお別れする悲しさだろうか。それとも、卒業したことの喜びや中学校というまだ未知の世界へ進むことへの不安だろうか。これは、大人でも子どもでも全ての人に言えることだが、自分にとって、今いるところが自分の世界なのである。いつ、どこで、だれと、どのようにしていても、今自分がいるところが自分の世界。だから、その自分の世界は常に変化し続けている。そして、その時その時に、自分の気持ちも変化し続けている。その瞬間、その瞬間にはいろいろな気持ちだったとしても、過ぎてしまえば、それはもう過去のこと、それ以上に今の瞬間の世界に切り替わっていく。そんな世界を私たちは生きているのである。そう考えると、小学校の卒業は、やはり一つの大きな節目なのかもしれない。言い方を変えると、小学校卒業は、自分を大きく変えるためのチャンスとも言える。いろいろな意味で、今までの自分から、新しい自分へチェンジするチャンスなのかもしれない。

返事について

ある地区の中学校の卒業式に出席した。厳粛な雰囲気の中で、中学生のすばらしい態度に感動した。式歌の歌声がまたすごかった。その中で、やはり注目したのは返事である。あの広い式場の中で、何百人といる中で、なんと堂々とした返事ができていたことか。きりっとした、はっきりとした「はい」という返事が響き渡ると、なんとも清々しい気持ちになった。こんな返事ができる中学生がすごくかっこよく、たくましく思えた。先日、本校の卒業式練習があった。その中で、証書授与の練習で、数名の6年生が呼名された。「はいっ」。こちらの返事も、実にはっきりと、力強く、堂々とした返事であった。この丸森日誌でちょうど1年前に、この卒業式における返事について書いた。卒業式で行う返事は、ただの返事ではない、ということを書いた。そこには、いろいろな思いが込められ、そして、今の自分ができる最高の返事でなければならないと思っている。そういう返事が、最初の練習から聞かれたことが、とてもうれしい。やはり、練習でできないことは本番でもできないからだ。きっと23日当日は、今以上に気持ちのこもった、素晴らしい返事が、式場に響き渡るにちがいない。楽しみである。

本物のすばらしさ

3月11日の福島民報朝刊に、「ふくしま新生へ挑戦」と題したメッセージが掲載されていた。その中で、震災から立ち上がり、福島県民は新たな挑戦をしていることや、その確かな成果が生まれていることが書かれていた。そこには、たくさんの苦労があり、ものすごく努力し続けていることだと察する。本当に頭が下がる思いである。特に、原発事故による影響、その後の風評被害は、なかなか簡単には解決できないことであった。それでも、震災から5年を経て、いろいろな面で変化が見られるようになった。記事にも、コメの全袋検査で基準値を下回ったことや県産野菜等の海外での輸入規制解除、魚介類の試験操業の拡大、そして、福島県産の日本酒の鑑評会における最高ランク評価獲得など、未来に向けた明るい期待が紹介されていた。そして、その後に続く言葉を読んで、ぐっと胸に迫る物を感じた。「福島県産は本物だ。世界で最も厳しいレベルの検査を経て出荷される。安全は折り紙付き、味は極上、品質は一流。世界ブランドとして堂々と売り込み、風評を払拭しよう。」そうなのだ。私たち福島県では、うそ、偽りのない、正真正銘、「本物」をつくっているのだ。微塵もごまかしなどない。安全で、安心して口にできる、そして、美味しいものなのだ。これが「本物のすばらしさ」だ。本物には力がある。きっと世界中の人に理解してもらえる、そう信じている。

サンコウチョウ?

朝早く、校舎周辺の巡視をしていたら、聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきました。すごくきれいで、それでいて、少し長めの鳴き声でした。これって、サンコウチョウ?と思いましたが、時期が少しずれているようなので、違う鳥かもしれません。ちなみに、サンコウチョウとは、漢字で「三光鳥」と書きます。名前の由来は、その鳴き声にあります。サンコウチョウの鳴き声は、「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」と聞こえることから、月・日・星の三つの光から、三光鳥と呼ばれています。図鑑などで見ていただくとわかるのですが、その容姿も特徴的で、すご長めの尾羽があり、きれいです。作る巣の形状も、かわいい丸い形をしているようです。朝、聞こえてきた鳴き声の正体は、なんなのか、いずれわかるといいなあと思いますが、鳴き声を聞いて、「あっ、◯◯◯だ」と分かったら、きっと楽しいだろうなあと思いました。

ボディ・イメージを育てよう!

今の子どもたちは、「ボディ・イメージ」が十分に発達していないといいます。ボディ・イメージとは「体の実感」のことです。具体的には次のようなことです。①自分の体の輪郭がわかる。②自分の体のサイズがわかる。③自分の体の傾きがわかる。④自分の体の力の入れ具合や抜き加減がわかる。⑤自分の体の伸ばし加減や曲げ加減がわかる。これらボディ・イメージが未発達だから、それが原因で次のようなことが起きます。周囲の人との距離感がつかめず、ぶつかりやすくなる。そのことで、不器用・雑・荒っぽいといわれる。自分の姿勢の傾き具合がわからず、姿勢がくずれやすい。そのことで、態度が悪い・やる気がないとみなされてしまう。力の入れ具合が分からないことから、他者への接触に鈍感で、逆に他者からの接触に敏感になる。そのことで、やった、やられたのトラブルが起きる。学校生活の中でも、このようなトラブルは、よく見かけます。その場合、行動面を指導するだけでは、なかなか解決しない要因の一つが、このボディ・イメージの未発達だと考えられます。子どもたち自身のボディ・イメージが育ち、発達するにつれ、そのようなトラブルは少なくなります。それには、日頃の生活の中で、体全体を使った活動やちょっとしたぶつかりあう経験を通して、加減を学んでいくしかありません。

入園・入学説明会を終えて

来年度の入園・入学説明会を終えた。1年前、この丸森日誌でも書いているのだが、本当に保護者の皆様には感謝である。お出でいただいた保護者の皆様には、こちらからの説明やお願いをしっかり聞いていただいた。なるべく不明な点がないように、準備の時に困らないようにと、説明資料も細かく、時間もそれなりにかけてお話しさせていただいた。それらを、最後まで聞いていただけて、本当に感謝である。皆さん、それぞれご家庭の事情もおありかと思うのだが、何とか都合をつけて来ていただいたことにも感謝。小学校の説明会ととなりの中学校の説明会が同じ日になってしまい、ご両親で分担されて参加いただいた方もおられた。このように、お家の方々が我が子のために一生懸命取り組まれていることを、当然のことと受け止めてはいけないと思っている。それよりも、このように熱心に協力いただいていることに感謝し、そして、それに学校側はしっかり応えていかなければならないのだと思う。改めて思うことは、本校のある地域、そして家庭が今回のように学校に対して、本当に協力的だからこそ、この地域の子どもたちは、とても素直に、明るく、子どもらしく、伸び伸びと育っているのだということである。

つなぐ

今、3年生以上の子どもたちは、休み時間や放課後に鼓笛の練習に取り組んでいます。これは、来年の新しい鼓笛隊としての練習です。そして、この練習には、6年生が大事な役目を果たしています。それは、「つなぐ」という役目です。自分たちが、先輩達から教えて頂いた鼓笛隊としての技を、下級生達に伝えるわけです。そこには、楽器の演奏やバトンの扱い方などの技術的なこともありますが、それだけではありません。練習に取り組む姿勢、始めや終わりのあいさつ、そして、鼓笛隊としての心構えなども伝えていきます。下級生達は、6年生からそういうことを教わりながら、しっかり受け継いでいきます。なぜなら、適当に受け継いでしまったら、それまでの形(そして、そこに込められた思い)が、違う形で伝わっていってしまうからです。運動会で保護者や地域の皆さんが、子どもたちの鼓笛隊の発表を見て、(懐かしいなあ)と感じるのは、そこに、大切なものを形を変えずに、きちんと伝わってきていることを感じるからだと思います。この大切なものが形を変えずに、きちんと伝わることを「伝統」と呼ぶのだと思います。

感じる心

花を見て、美しいと感じる。星空を眺めて、きれいと感じる。この場合、花や星空に「美しい」「きれい」な要因があるのではない。同じ花を見ても、同じ星空を眺めても、美しい、きれいと感じない人もいるからだ。つまり、私たちが「美しい」「きれい」と感じるのは、その人の心が、「感じる心」なのである。この「感じる心」、これを言い換えるならば、「やさしさ」である。「感じる心」は「やさしさ」。では、やさしさとは、何か。やさしさとは、相手の人生に自分との出会いを置かせていただくこと。そして、自分の人生に、その人との出会いを受け止めさせていただくこと。出会いを置かせていただき、受け止めさせていただく。それが「やさしさ」。人生は、一回こっきり。二度とない。その一度きりの人生において、主役は自分。自分以外の人は全て脇役。しかし、その脇役の方々が登場してくれるから、自分の人生は豊かなものになる。だから、例え、どんな人であろうとも、その人との出会いは、自分の人生において、全てかけがえのないものである。だから、感謝なのだ。よくぞ、私の人生に登場してくれました。ありがとう。そういう感謝の気持ちをもって、その人との出会いを受け止めさせていただく。そして、私という脇役を、その人が主人公の人生にも置かせていただく。それが、やさしさであり、感じる心なのである。(この話は、手話パフォーマーである丸山浩路さんの講演会で伺ったお話である。)

田村っ子のルール10に思う

昨日は、田村市の立志式が行われた。その要項の裏に「田村っ子のルール10」が掲載されていた。これは「あいさつをしよう」「うそはつかない」「はきものをそろえよう」などの10個の生活のルールである。私の郷里会津若松にも「あいづっこ宣言」なるものがある。こちらは、日新館の什の教えの現代版のようなもので「人をいたわります」「がまんをします」「夢に向かってがんばります」など六つの宣言が書かれてあり、最後に「ならぬことはならぬものです」と結んでいる。田村っ子もあいづっこも、どちらも似ているのだが、あいづっこは、どちらかというと精神的な面が多く、田村っ子は、具体的な行動面を示しているように思う。そして、田村っ子のルール10には、次のような文が書かれている。「あたりまえのことをあたりまえに思ってあたりまえに行動する」。私は個人的にこの部分が気に入っている。田村っ子のルール10は、ルールではあるが、それを破ったりしなかったりした時のペナルティーはない。しかし、自分が人として生きていく上で、よりよく生きていくためには、このルールを守らないよりは守ったほうがいい。そして、なぜ、そうするのかというと、それは、そうすることが「人として生きていく上であたりまえのことだから」。やりたくないからしない、ではないのだ。そうすることがあたりまえのことだからやるのである。だからこそ、この田村っ子のルール10は、学校だけで教えるものではなく、家庭、地域一緒になって、教えていかなければならないのである。

好きな言葉

私が子どもの頃、我が家には「名言・格言カレンダー」なるものがあり、そこにいろいろな人の名言・格言がのっていました。その中から、家族一人一人が、自分の好きなお気に入りの言葉を選んでいました。前回紹介しました「施して報いを願わず、受けと恩を忘れず」の言葉は、私の両親の好きな言葉でした。私の兄が好きな言葉は「人生二度なし」。これは、哲学者、森信三の言葉。妹の好きな言葉が「笑顔は人生の花」。今、思うことは、それぞれの家族が、自分の好きな言葉のように生きているなあということ。両親は、周りの人からいろいろと頼りにされ、相談を受けることが多く、それらを嫌な顔一つせず応対していました。兄は、中学から始めた剣道をずっと続け、まさに剣の道一筋に生きています。妹は、言葉のとおり、いつも笑顔で楽しそうに周りの人に接し、周りの人も笑顔にさせています。では、私はと言うと、好きな言葉は「いまやらねば、いつできる。わしがやらねば、だれがやる」。これは、彫刻家の平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の言葉。今やれることに、今やれる力を惜しむことなく注ぐ。自分がやれることには、人任せにすることなく、精一杯取り組む。そのように生きていきたいと、常に思っています。

日本人の真心 その2

同じく日本人の真心をテーマに取り上げた映画が、「海難1890」である。この中で紹介されている「エルトゥールル号遭難事件」は、6年生の社会科の教科書にも取り上げられている。実はかつて6年生の社会の授業をした時に、そのエルトゥールル号遭難事件と、それから100年近く経ったあとのイラン・イラク戦争でのトルコ救援機による日本人救出のことを取り上げたことがあった。だから、今回、その二つの出来事が映画になったことを知り、とてもうれしかった。映画はまさに、前述した「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」であった。自分たちの貧しい暮らしを犠牲にしてまで、異国の遭難者達を救出し、介抱した和歌山県の漁村民たち。そして、そのように自国の先祖達が助けてもらったことを、ずっと忘れずに語り伝え、そして、100年後、今度はその恩を返すのは自分たちの番だと、自分たちにも危険が迫っている状況で、日本人達を救ってくれたトルコの人たち。人間って、なんてすてきなんだと改めて感じることができた。この出来事や杉原千畝のような人物がいたことを、多くの日本人が知り、そして、自分たちが日本人として、人間として誇りを持って生きていくことをできるといいなあと思う。

日本人の真心

年末の映画の中に、日本人の真心をテーマに取り上げている映画があった。その一つが「杉原千畝」。日本のシンドラーと称される彼の業績は、まさに日本人としての真心である。その彼の真心を作り出したのが、彼が学んだハルピン学院の教えでもある。ハルピン学院校訓「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」である。私は、これを知った時、ある言葉を思い出した。それが「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」である。これは、大隈重信の言葉とも言われるが、江戸時代の中根東里(なかねとうり)という儒学者の言葉のようである。困っている人がいたら手をさしのべる。そして、そのことで相手になにか見返りを求めたりはしない。しかし、逆に、自分がだれからか助けていただいたのなら、そのことは決して忘れてはいけない。そして、今度は自分がだれか困っている人はいたら助けてあげる。これは、日本人に限らず、人としての生き方でもあると思うのだが、悲しいことに、このような生き方・考え方は今やどこかにいってしまったのかと思う時がある。何かしたら見返りを求める。それを当然のように主張する。自分だけ施すことは損だという。そういう温かいの血が流れていないような態度・考え方。杉原千畝の生き方を知ることで、損得だけでない、真心をもって対応することの素晴らしい、美しさを感じてもらえたらと思う。

親の心が軽くなるハッピーな子育て術 その2

 してはいけないことの三つ目、「兄弟と比較しないこと」。全くおまえはダメなんだから、等と比較されて否定的なことを言われた子どもは、自分に自信を持てない子になる。だから、全ての子に「自分が一番愛されている」と感じさせることが大事。
 これらしてはいけないことを親はしないこと。そして、子どもがどんな悩みも打ち明けられる親になること。そのためには、親自身が、人間的に成長することが大切。それは、本気で生きている姿や深く自分を見つめる姿を、子どもに見せること。親が子どもに本気で仕事に打ち込み、深く自分を見つめ、悩み、それでも前に進もうとする姿を見せること。

 男の子を育てている親へ。将来、息子が就職、結婚等で自立できるように、男の子にこそ、しっかり家事を手伝わせること。そうして、フットワークのいい子に育てる。女の子を育てている親へ。人間関係で悩んだ時、ちゃんとSOSを出してもらえるように、弱音を吐ける家庭を作っておくこと。そのためには、親自身が家庭内で弱音を吐くモデルになること。

 家庭内で、肯定的な言葉「ごねんね、おねがいね、ありがとうね」を循環させる。親自身のスキンシップを大事にする。そして、自分のことが自分でもわからない思春期でも、会話を大事にし、子どもにはそうした方がいいことを伝える。そのキーワードは「あなたなら、できるよね~」

 あっという間の2時間の講演会であった。参加いただいた皆様、ありがとうございました。

親の心が軽くなるハッピーな子育て術 ~諸富氏講演会より~

 とにかく笑いの絶えない、とても楽しく、それでいて納得してしまう内容の講演会であった。以下に話の概要を抜粋して掲載する。

 子育ては・・・なるようにしかならない。まさに、子育ては運。いつ、いかなる時に、子どもがよくもわるくも変わるかは、正直わからない。ただ、言えることは、なるようにしかならない。言い換えると、なるようになることが大事。つまり、親の立場から言えば、親が子どもの成長を邪魔しないことが一番。それは、親として子どもに「してはいけないこと」をしないことである。子どもの成長にとって、一番大事なことは、親の心が安定していること。だから、してはいけないことの一つ目は、「イライラ、カリカリを子どもにぶつけないこと」。もし、いらいらしてきたら、親の方が子どもから一歩引く。場合によっては、子どもから離れること。そして、場所を変え、イライラカリカリを解消してくる。いらいらして、子どもと対等にやり合うということは、親が「子ども」と同じ立場になっているということ。親は、「大人」なのだから、「子ども」になってはいけない。やってはいけないことの二つ目は、「否定的なことを言わないこと」何やってるの、ダメなんだから、馬鹿、しょうがない等の否定的なことを言われ続けた子どもは、自分自身そういう子なんだと受け止めてしまう。そうではなく、肯定的なことを子どもには言うことが大事。さすが、いいね、じょうずだね、大丈夫、きっとできるよ、ここまでできたね、すごいね等。(次回に続く)

「できない」ということ

以前、ある学校で「どうせぼくにはできない」という子に対して、「なぜ、やってもいないのにできないと決めつけるのか」と叱責したことがある。「できない」というのに二通りあるのだ。一つは「やってできないこと」。もう一つは「やろうとしないからできないこと」。この二つは、どちらも「できない」点では同じだが、その内容は雲泥の差がある。やった結果できない方は、そのままあきらめずにやり続ければ、いずれ「できる」可能性がある。事実、今年になって一輪車に初めて乗った女の子が、毎日毎日、休み時間一輪車の練習に取り組んだ。何度も転びながら、それでもあきらめずに毎日毎日一輪車にまたがった。そうしたある日、その子は手すりから1m進んだ。しばらくすると2m、3mと距離を伸ばしていって、今では誰よりもすいすい一輪車に乗っている。その過程を見ていた私は、改めてあきらめずに続けることはすごいことだと感心した。一方、やろうとしないからできない方は、きっとこの先もずうっとできないままである。できる可能性はゼロだ。子どもたちはなんでもできるようになる可能性で満ちている。すべては、その子自身の気持ち次第。だからこそ、「やってできない」のか、「やろうとしないからできない」のか、この二つは常に区別して考えなければならない。

学習発表会を振り返って その3

幼稚園は、今年、年少のうさぎ組と年長のぞう組の、それぞれの発表をした。おそらく、うさぎ組の園児たちは、今回のどの学級の発表より、一番早くに完成していた。発達段階もあろうが、早くから練習に取り組み、繰り返し練習してきたことで、本番でも堂々と自信をもって踊ることができていた。ぞう組は男の子が5人である。この5人でピノキオの劇を行った。おそらくストーリーをどう展開させるか、配役をどうするか苦労したことと思う。それでも、せりふもちゃんと覚えて大きな声で言えていたし、動きもみんなでそろえて振り付けもできていた。さすが年長さんである。特設合唱部の発表もあった。コンクールで披露した曲の他に、新たに2曲を加え、発表した。歌声もそうであるが、前よりさらに、指揮者に集中して歌っている様子がみられた。温かい優しい気持ちになる歌声だった。こうして振り返ると、今年の学習発表会は、バラエティに富んだ、見ていてとても楽しくなるものだった。そこには、自分たちの発表をすることに、一生懸命取り組んだ子どもたちがいて、そういう子どもたちのよさを生かした発表をさせたいという強い思いをもった担任がいて、それに労を惜しまずバックアップする担任外の先生方がいて、そして、協力をおしまない地域の方々、保護者のみなさんがいて、そして、当日、会場に集まり、一心に子どもたちの発表に拍手を送ってくださったみなさんがいたからこそ、達成できたのである。本当に心から感謝である。

学習発表会を振り返って その2

6年生は、ある意味、5年生の劇とは真逆のものに挑戦した。それは、ストーリーから台詞、役、衣装などなど、全てオールオリジナル、全部手作りの創作劇である。基本コンセプトは、社会科で学習した日本の歴史。その中で、いろいろな歴史上の人物が登場し、ある部分は史実に基づき、ある部分は全くの空想、ノンフィクションの展開で構成されていた。ちゃんと時代劇の定番、悪代官と越後屋も登場し、「おぬしも悪よのう」の決めぜりふも出た。そこに、歴代の正義の味方、遠山の金さん、銭形平次、暴れん坊将軍、そして水戸のご老公まで出てくるのだから、それもそれぞれのお決まりの曲にのって登場とあれば、予行と違って、年齢層の高いお客さんがどっとわくのは当然である。しかし、これが単なるおふざけかと言うとそうではない。その後は、太平洋戦争、原爆にもふれ、最後は、人類の長い歴史は、その時代時代で争い事、いくさ、戦争が繰り返させてきたこと。だからこそ、大事なのは平和、相手を思いやることだと締めくくっている。およそ30分にも及ぶ大作の創作劇であった。これに費やしたエネルギーはいかばかりかと思う。そして、この劇を創り上げるのに、6年生の子どもたちが実に嬉々として取り組んでいた様子が忘れられない。まさに、自分たちの手による、自分たちしかできない、自分たちの発表を本気・全力100%で行い、見ている人を楽しませることをとことん追究した内容だった。

学習発表会を振り返って その1

1年生は国語科で学習した「くじらぐも」を劇化した。自分たちで白いお花紙で大きなくじらぐもも作った。くじらぐもにのるシーンでは、練習でなかなかタイミングが合わなかったが、本番ではぴったりジャンプのタイミングがあって、元気よく表現できていた。2年生は、早いテンポのリズムに乗ってダンスした。練習からノリノリで取り組み、毎回汗びっしょりになって踊った。本番でも、入場から退場までダンスのイメージに合った曲に合わせて、からだいっぱい表現できた。3年生は各チームに分かれて、自分たちの得意なことを、サーカス団になって発表した。フラフープを10本回したり、一輪車で大技を披露したり。パントマイムやマジシャンまで登場して、一つのサーカスショーになっていた。4年生は、総合学習の地域の太鼓を取り上げ、それぞれの地区の太鼓演奏と、よさこいソーランを踊った。太鼓や法被の借用からダンス指導まで、多くの地域の方に協力いただいた。それに応えるように、力強く、きれよく、まとまって太鼓をたたき、よさこいを踊った。4年生の新たな一面が見られた発表だった。衣装のはちまきや旗飾りの作りにも、みんなで取り組んだ。5年生は、言わば正統派の学校劇に取り組んだ。台詞をしっかり覚え、衣装や小道具もきちんと準備し、動きや台詞の言い回しをとことん練習して作り上げた劇だった。予行の反省を踏まえ、本番ではよりよい発表に仕上げてきた。個性的な役も自分たちのものにして演じた。さすが5年生!という発表だった。

マラソン考

田村富士ロードレース大会に参加した子どもたちは、みな完走することができた。2kmとはいえ、多少アップダウンのあるコースだったようで、走るのがあまり得意ではない子どもたちにとっては、かなりきついレースだったと思う。それでも、途中、苦しくなったり、足が痛くなったりしながらも、最後まで走りきったことは、本当にすばらしい。この「最後まで走りきる」ことこそが、マラソン(長距離)の大事な目的である。我が福島県には、これまで数々のマラソンの名ランナーが存在するが、私と同郷の会津出身のマラソンランナーに、佐藤敦之選手がいる。彼は全盛期に、北京オリンピックのマラソン選手に選ばれ、出場している。しかし、大会間際に体調を崩し、力を発揮することができなかった。レースが始まるや、徐々に後退していった。普通の選手は、体調が悪く、さらに、順位を落としていったら、途中で棄権することが多い。しかし、佐藤選手は、途中で棄権することなく、最後まで走りきり、参加選手76人中、最下位の76位でゴールしたのだった。私は彼の姿こそ、マラソンをする者のあるべき姿だと思った。たとえ最下位になろうとも、あきらめることなく、必死にゴールを目指す。11月12日、本校ではマラソン大会が予定されている。ここで目指すことは、全員の完走である。

学ぶ楽しさ

前回の「親の思いを知る」話の中で、「新しいことを学ぶことが楽しいようだ」と書いているお家があった。他にも、「学校で勉強したことを、帰ってくると楽しそうに話してくれた。」と書いているお家も多く見られた。これらは、まさに子どもたちが「学ぶ楽しさを味わっている」ことだと思った。学ぶ楽しさとは、知らないことを知った時の喜びである。わからなかったことがわかった時、できないことができた時の喜びである。私たち人間は、そうやって学ぶ喜びを味わうことができるから、一生学ぶのである。学ぶという行為は、子どもたちだけのことではない。大人になってからも、学ぶことはできる。どんなに年をとろうとも学ぶことはできるのだ。ご高齢のジャーナリストむのたけじ氏は、著書「詞集たいまつ」の中で、こう述べている。「人は学ぶ生き物である。学ぶことは生きること。生きることは学ぶこと。学ぶことをやめれば、生きることをやめることである。」・・・なんとも厳しいお言葉ではあるが、やはりそうなんだなあと思う。学ぶことは、机に座って本を開くことだけではない。レストランに入って、おいしい料理を口にした時、それがどうしておいしいのかを知ることだって学ぶことである。釣りをしていて、どんなえさなら釣れるのか、あれこれ試すことだって学ぶことである。そして、私たち大人が、目の前の子どもの言動から学ぶことだってあるのだ。

親の思いを知る

本校の通知表は、「教育通信 みなみっ子」。今年度、前期の通知表の形を昨年度と変えた。これまでは、前期・後期ごとに家庭に配付して回収しないタイプだった。それを、ファイルの形にして、前期と後期の両方を綴じる形にしたのだ。そして、前期配付した後、後期の始めに回収した。その際、「保護者から」の欄を設けた。そこに、保護者の方に、感想や意見、家庭での様子など自由に記述いただいた。回収したものを拝見させてもらった。「入学した頃は、いろいろと心配なことがあったが、だんだん慣れてくると、元気に学校に行けているようでよかった。」「初めてもらった通知表を家族みんなで見て、がんばっていることをほめた。すごくうれしそうだった。」「この調子で、これからもいろいろなことに挑戦してほしい。」「家ではのんびりマイペースで、これで大丈夫なのかと思ったが、学校ではこの子なりにがんばっていることがわかってうれしかった。」「毎日、新しいことを学ぶことが楽しいようだ。」・・・。この「家庭から」の欄には、保護者の方の我が子への愛であふれていた。読んでいて、すごく温かい気持ちになった。このようにお家でも愛されている子どもたちだから、素直な子どもたちに育つのだと思った。

「おめでとう」「ありがとうございます」

前期終業式の後、表彰があった。それぞれのコンクール等の表彰が行われ、最後に市陸上大会の表彰があり、入賞した6年生たちが賞状を受け取った。校長先生が読み上げて、本人に「おめでとう」と声をかけて賞状を渡した。すると、6年生の子どもたちはみな「ありがとうございます」としっかりと返事を返しながら賞状を受け取ったのだった。ここまでしっかりと声を出して賞状をもらう姿は下級生の中にはいなかった。しかし、6年生はその場にいた全員に聞こえる声で、「ありがとうございます」とあいさつを返しながら賞状をもらっていた。すごくいいなあと思った。式が終わった後、担任にそのことを尋ねると、やはり終業式前にきちんと事前指導していたのだった。やはり、子どもたちは指導されていないことはできない。それも、ただ「そうしなさい」では、子どもはできない。どうしてそうするのか、なぜそうするのがよいのか、そのところを指導しなければ、できないのだ。「おめでとう」と言われたら、「ありがとうございます」ときちんと返すことは、当たり前のことではある。でも、それを表彰という場でも、当たり前のようにできることは、やはりすばらしい。このことは、その場にいた下級生達にとって、とてもいいお手本でもあった。次の表彰では、6年生のように賞状をもらう下級生がふえるに違いない。

「そのままつづけてください!」

子どもたちは、時に大人達が思いもしないような、行動をすることがある。幼稚園で人形劇を鑑賞中、一人の子どもが体調が思わしくなく、ちょっともどしてしまった。突然の出来事に、先生方は拭き取るためのティッシュや汚れてしまった服の交換などのために、動き出そうとした。と、その時、そのもどしてしまった子どもが、目の前で人形劇を中断していた劇団の方に、「そのままつづけてください!」と言ったのだ。予想外の子どもの言動に、劇団の方は驚くとともに感動し、「それでは、つづけてくださいということなので、劇を続けますね」と言って、人形劇を続けたのだった・・・。この話を聞いて、びっくりした。幼稚園児である。幼稚園の子どもが、この対応。大人だって、そんなこと言えないかもしれない。子どもってすごいと改めて思った。そして、この話には続きがある。汚れた服を交換して、その替えの服に、その時お邪魔していた幼稚園の併設している小学校のジャージを持ってきてくださった。そして、「今日だけ違う学校の子どもになろうか」と声をかけたところ、その子はそのジャージに着替えることを拒んだのだ。理由は口にしなかった。なんとか、ズボンははいたが、上のジャージはとうとう最後まで着なかったのだった。どうして着なかったかはわからない。しかし、なんとなく、そこに自分の幼稚園や小学校に対する思いみたいなものがあったのかなあと勝手に想像してみた。そして、子どもって、私たち大人が思っている以上に、いろいろなことを考えて生活しているのでないかと思った。

「だって、たのしみなんだもん!」

1年生のSくんが、校務センターの窓越しににこにこしていました。行って話しかけました。「なんか、うれしいことでもあるの?」するとSくん、さらににこにこしながら「だって、たのしみなんだもん!」「そう、なにがたのしみなの?」「きんようび!!」・・・金曜日?あっ、キッザニアだ。「キッザニアに行くのが楽しみなんだ。そうか、ところで、Sくんはキッザニアで何のお仕事をしたいのかな?」すると、すかさず「おかしこうじょう!」「あっ、そう。おかしこうじょうかあ、いいねえ。つぎは?」「つぎは、そふとくりーむしょっぷ!!」この会話中、ずっとにこにこのSくん。廊下に貼り出してあるキッザニアの地図を見ながら、きっと行きたいところを友だちと話していたのでしょう。他の休み時間、6年生の男の子にも聞いて見ました。「Kくん、キッザニアで何をやりたいの?」「ぼくは裁判所に行きたいです」おっー、さすが、6年生。きっとものすごく貴重な体験になるだろうなあと思いました。そして、こんなにも子どもたちがキッザニアに行くのを楽しみにしてくれているとわかって、こちらもすごくうれしくなりました。

陸上大会に想う その2

その子は800mに出場した。目標は3分00秒台で入賞すること。800mの練習はかなりきつい。坂道ダッシュもあれば、インターバル走もある。同じペースで校庭を何周も走った。途中で弱音をはくことはなかった。800mの他にリレーのアンカーにもなった。最初、リレーのアンカーは、あまり乗り気でなかった。理由は、最後に抜かされたらいやだから。でも、自分がアンカーをやることに正式に決まってからは、覚悟を決めて練習に取り組んだ。当日は、リレーの予選が最初にあった。結果は、決勝にはいけなかった。残りは800m。そこで、全てを出し切ろうと決めた。レースが始まった。スタートからの早いペースに少しずつ離されていった。そして、いよいよラスト200m。そこから、最後の追い上げがすごかった。まさに全力、全ての力を出し切って、目の前の選手を追い上げた。ぐいぐいと、どこにまだそんな力が残っていたのか。ゴールが迫る。前の選手の背中がもう目の前だ。その時、彼女は(ぬきたい!)そう強く思った。そして、本当に最後の力をふりしぼった。そして、そのままゴール。おしくもぬけず、結果、彼女は9位。8位入賞まで、わずか0.03秒差だった。おしかった。入賞できなかった悔しさはある。しかし、全力を出し切った満足感でいっぱいだった。そして、この大会での頑張りが、自分への自信につながった。私はできる!I can do it !

陸上大会に想う

女子走り高跳びで入賞した女子がいる。彼女は、それまでベストが115cm。それ以上は跳んだことがなかった。しかし、昨年度の大会の1位の記録は113cm。だから、上位入賞はできるだろうと思われていた。本番当日、なんと113cmを5人も跳んだのだ。次の高さは116cm。1回目の試技で一人だけ跳び、あとの4人は失敗。その中に、本校の子もいた。彼女にとっては116cmは未だ未知の高さ。2回目、他の3人がクリア。その子の番が来た。すると、なんと見事、クリアできた。ベスト記録達成!次は、119cm。1回目で一人跳び、2回目でもう一人が跳んだ。3回目、先の2名がクリアし、彼女の番が来た。その時、どんなことを考えていたのか?後で聞いて見たら、「自分も跳ばなきゃ」そして、「自分も跳べる!!」と思っていたのだった。結果は・・・。彼女は見事119cmを跳んだのだった。もし、心のどこかで(だめかも・・・)と思っていたら、きっと跳べなかったと思う。しかし、その時の彼女は自分の力を信じていた。私はできる!  I can do it ! その後、成功して、飛び上がって喜ぶ彼女の姿が遠くから見えた。次の瞬間、彼女は他の学校の選手とハイタッチして一緒に喜び合っていた。上位の記録で競い合う仲間には、時にある連帯感が生まれる。つらい練習を乗り越えて本番の舞台で競い合う者だけがわかり合える、成功した時の共感できる喜び。すごくいいなあと思った。

わたしの仕事でない仕事

学校とは限らないことではあるが、職場には「わたしの仕事」と「わたしの仕事でない仕事」の2種類が存在する。先日、急遽陸上大会用のゼッケンを50枚作成することになった。白布を注文し、アイロンプリントで文字を作成し、布を裁ち、縁をミシンで縫い、最後に文字をプリントして完成。これらの作業は、全て誰がやると決まっていない「わたしの仕事でない仕事」であった。本校では、ゼッケン作りが決まった時から、誰とはなしに作業を進めて、2日間で既製品のようなゼッケンを作り上げた。みな、それぞれ本来やるべき「わたしの仕事」が当然ある。その上で、このような「わたしの仕事でない仕事」を快く引き受けて取り組んで頂けることに感謝である。他にも、資源物回収で使用したブルーシートを干して、きれいに片付けてくれる人がいる。連日の雨で荒れた校庭を整地してくれる人もいる。風が強くて倒れやすくなったアサガオのプランターを、ひもで倒れないように固定してくれる人がいる。校舎前の花壇の草が伸びてくると、きれいに除草してくれる人がいる・・・。もし、一人一人が「わたしの仕事」以外はやらなかったら、きっと職場はぎくしゃくとした働きにくいところになるだろう。「わたしの仕事でない仕事」に気づいた人が、進んでやってくれるから、職場にあふれるいろいろなことが、スムーズに回り出し、結果、働きがいのある、働きやすい職場になるのかもしれない。そのような職場で働けることを本当に幸せだと思った。

思いやりとは?

先日、東京都立青山特別支援学校の川上氏の話を聞く機会があった。講演の冒頭で川上氏が聞いてきたのが、タイトルにある「思いやりとは?」の質問だった。みなさんは、どうお考えになるだろうか。相手の立場に立つ、相手の気持ちを考える、困っていることを助けてあげる・・・いろいろと思いつく。氏のこたえは、「思いやりとは、相手の〇〇に気づくこと」。さあ、〇〇に当てはまる言葉はなんだろうか。それは、「価値」。「思いやりとは、相手の価値に気づくこと」。なるほど、と思った。価値とは、そのものが持っている値打ち、大切さ。だから、思いやりとは、相手がどのように大切かに気づくことである。この世の中で、価値のない人はいない。だれもが、生まれてきた価値、生きている価値があり、その人ならではのよさがある。まずは、そのことに気づくことから始まる。とっても深い話だった。まとめの話が、「特別支援教育ってどんな教育?」について。それに対して氏は、特別支援教育は、「できない子」「ダメな子」の教育ではないという。子どもを輝かせるための制度の一つである。だから、特別支援教育は、『うまくいかない』ことがある子どもの、『価値』を高める教育であると述べていた。すごく考えさせられる話だった。

夏休み後半突入!

今年の夏休みは38日間。今日から残り19日なので、半分過ぎたことになります。もう半分終わってしまったと思うと、ちょっと悲しくなりますが・・・。今年の夏は連日の猛暑に、エアコンの効いた部屋から出られない日々が続いています。そんな中、合唱部の子どもたちは午前中練習に頑張っています。また、午後からは、学校のプールに多くの子どもたちがやってきます。そういう意味では、夏休みでも子どもたちの姿が見られる毎日です。この暑さも今週までのようで、来週からは多少やわらぐようです。プールの開放も明日までなので、来週からはちょっと静かな学校になりそうです。それでも、まだまだ熱中症の心配な日々は続きます。しっかり水分をとり、体調の管理に十分気をつけてください。それでは、夏休み後半も安全に楽しくお過ごしください。

宿泊学習を振り返って

今回の宿泊学習は、県の「ふくしまっ子自然体験・交流活動等支援事業」の補助を受けて実施した。結論からいうと、この支援事業の補助なしには行えない活動であったとも言える。今回、宿泊費として一人一泊5000円の補助が出た。活動費も一人1日2000円の補助があるので、3日間で一人6000円の活動費が出たことになる。そこで、当初の計画を一部変更し、会津若松市内のホテルに2泊する計画にした。こうすることで、二日目のグループ活動を、ホテルスタート、ホテルゴールにすることができた。また、活動時間もたっぷり8時間とれた。これは、日帰りや一泊、または市内から遠い宿泊地では決してできないことだった。活動時間が長いことと、活動費の補助が出ることで、子どもたちの見学先や体験活動に余裕が生まれた。やりたい活動にじっくり時間をかけて体験したり、行きたいところへ時間に追われることなく行ったりすることができた。それから、改めて思ったことは、このようなグループでの活動に、会津若松市内はすごく適していることだ。周遊バスがあることで移動もスムーズだし、歩いても歩けない距離ではないくらい、実に見学先がまとまっている。歴史や伝統文化が豊かなことは言うまでもなく、食文化も豊富で何を食べるか迷うほどだ。そして、子どもたちの感想でも聞かれたのが、会津の人たちの優しさであった。困った時に尋ねたら、すごく親切に教えてくれたり、やさしく言葉をかけてきてくれたりと、子どもたちはとてもうれしかったようである。そういう意味で、この支援事業がねらいとしている交流活動という点でも、子どもたちは充実していたようだ。

夢先生「柴田亜衣さん」のお話を聞いて

「オリンピックに出たい」という夢はあった。しかし、幼い頃からその夢に向かってがんがん練習に取り組んだ・・・のではなかった。水泳を始めたきっかけは、水泳をやりたかった母親に連れられて入ったスイミングスクールだった。亜衣さんは「もし、母親が水泳をやりたくなかったら、きっと今の自分はいない」と言っていた。そういうこともあるのだ。子どもの運命に、何が影響しているかわからない。そうして始めた水泳の最初の目標は「進級のバッジ集め」。自分が泳げる距離が伸びていったり、泳げる種目が増えていったりすることが楽しかったに違いない。次の目標は「自己ベスト」。速く泳ぐこと。タイムを縮めること。中学時代、やっと大会にも出場するようになったが、まだまだ全国レベルではなかったそうだ。それでも、中学高校と目標を全国大会で入賞することを掲げ、それに向けて猛練習。そうして、大学時代、オリンピック出場を目標にそれを達成。金メダルを獲得。「オリンピックに出たい」という夢はもっていた。しかし、目標は、今の自分にできること、今の自分が少し努力すれば達成できること。大事なのは、その目標達成に向けて手を抜かないこと。つらくても苦しくても、今やっていることが自分の目標達成につながっているのだと思うこと。亜衣さんが南っ子に残してくれたメッセージが「あわてず、あせらず、あきらめず」。子どもたちの可能性は限りない。そのことを改めて考えさせられた。

高柴山山開きに思う

山ツツジで有名な高柴山の山頂で、山開きの安全祈願祭は行われた。高柴山の登山口はいくつかあり、それぞれの登り口から40~60分で登れる。それでも、登山道はそれなりに勾配もあり、決して楽ではない。それなのに、かなりの人数の登山客が山頂に集まった。子どもから高齢者まで年代も様々だ。そうした中で行われた安全祈願祭。高柴山は小野町と田村市にまたがるので、それぞれの関係者も参列。そんな多くの方々の思いが寄せられた山開きだった。今年のツツジは例年より早めに咲いたそうだ。そして、古木などの手入れも行ったそうで、残念ながら、ツツジの花は満開とはいかなかったが、山頂からの眺めは気持ちがいいものだった。おそらく来年は、真っ赤に咲きそろったツツジの花が見られるだろう。登山をするといつも感じるのは、登っている時はきつくて、もう二度と来ないと思うことがあっても、山頂に着き、そして、下山して数日経つと、なぜかまた登りたくなるということだ。学校教育で子どもたちに登山を経験させるところがある。小さな一歩でも、ゆっくりでも、一歩一歩進んでいけば、必ず山頂にたどり着く。途中どんなにつらくても、自分の足で進むしかない。そういう達成感を味わわせることができるのが登山だ。そして、どっぷり自然の中に身を置くことができるのもいい。

運動会に思う

あんなに晴れの日が続き、当日も間違いなく晴れの予報であったのに、当日の朝から天気は急変、一面、曇り空。今にも雨がこぼれてきそうな空だった。しかし、結果オーライ。途中、小雨に何度か降られわしたものの、昨年のような風も吹かず、気温もそこそこまで上がり、決して寒くていられないという状況ではなかった。実際、翌日曜日は太陽も顔を出した晴れだったが、風が強くて、こっちの方が寒さを感じたくらいだった。それにしても、今回の運動会を終えて、改めて、南っ子たちの素直さ、健気さを感じた。団体戦を見てそう思った。競技に使った道具を決められたところに置く。競技のルールをしっかり守る。決してずるしてごまかそうとしない。そういう姿が至る所で見られた。いや、当たり前のことかもしれないが、この当たり前のことが当たり前のようにできることを、田村市の教育では目指している。勝ち負けだけでない、運動会で大事にしたいことを、子どもたち一人一人が目指して取り組んだ運動会だった。そして、朝早くの準備から、最後の片付けまで、保護者の皆さん、地域の皆さんに協力頂いた。心から感謝である。

運動会で目指すもの

ある町がオーストラリアのある都市と友好都市を結んでいた関係で、児童引率でオーストラリアの学校を訪問したことがある。その学校は校庭がなく、体育の授業もなかった。しかし、近くの運動場で、日本の運動会のような「アスレチックフェスティバル」を行っていた。マーカーを並べてつくった手作りのトラックを使って、800m走をしていた。そのレースを見ていて驚いたことがあった。それは、20名ぐらいで走っていて、1着から3着が決まった瞬間、先生方がまだ走っている子どもたちに「はーい、おわり、おわり」と合図して途中でやめさせたのだった。びっくりした。なんという合理主義。入賞者が決まれば、もうそのレースは用済みなのだ。日本ではそんなことはありえない。全員最後まで走らせるところだ。結果第一に考えればこうなるのかもしれない。今、運動会の練習の真っ最中。子どもたちは暑い中、頑張って走ったり、演技したりしている。徒競走では、たとえ何番になろうとも、全員ゴールまで走る。それは、入賞するためだけが運動会の目的ではないからだ。運動会でめざすもの。それは、最後まで本気・全力で、あきらめずにがんばること。自分の演技も、応援も、係の仕事も、開閉会式の姿勢も、あいさつも、全てにおいて本気・全力で頑張る。その姿こそが、「かっこいい」のである。そういう「かっこいい」姿を、お家の人や地域の人に見せられるよう、全校生で取り組んでいる。

地域に思う

もう少しだなあと思っていましたが、気がつけば、30000アクセス越え。訪問いただいていた皆様に感謝。そして、今後も充実した記事を掲載していくことを目指します。さて、堂山王子神社の春季例大祭に行ってきました。まず、この神社は「国指定重要文化財」になっています。興味深いことに、この神社の入口には「鐘楼(鐘撞き堂)」があります。普通、鐘楼は寺院にあるもの。なぜ?さらには、本殿の中央の鈴が「鰐口(わにぐち)」になっています。これもお寺にあるもの。実は、この堂山王子神社は、非常に珍しい、神社と寺院の合体したような造りになっているのです。そこには歴史的な背景もあるようで。それにしても、今回の堂山王子神社の巫女舞いも、昨年度、堀越の明石神社の巫女舞いや遠山沢の三匹獅子にもお邪魔して共通して感じたことがあります。それは、この地域がこういう昔から伝わっていることを大事にして、そこに子どもたちが関わっていること。そして、こういう行事を通して、地域で子どもたちが育てられているなあと感じることです。すごくいいことだなあと、改めて思います。

自信と誇り

月曜日に新年度がスタートして5日間。まず、この5日間、全校生103名は誰一人お休みすることなく登校してきた。すばらしいことである。そして、毎日登校してくれた子どもたちと、送り出してくれた保護者の皆さんに感謝である。これで、早くも全員登校日は5日。昨年度の76日間を越えて、新記録を目指したい。このように毎日学校に来る子どもたちは、学校では異年齢集団となる。朝の集団登校から始まり、休み時間のふれあい、縦割り班での清掃、そして特設部活動などで、様々な学年と関わりながら生活している。当然、一番から体を動かし、小さい子のお世話をしてくれるのは6年生である。学校での異年齢集団を支えてくれているのが6年生。ここで、大事にしていきたいことは、この6年生の子どもたち一人一人に、6年生としての「自信」と「誇り(プライド)」を持たせることである。全職員が一丸となって、学校を支えてくれる6年生に、いろいろな場面で感謝の言葉をかけ、次なる活動への意欲付けをしていく。そうして、6年の子どもたちは、学校のため、下級生のために、役に立とうとするリーダーに育っていくのだ。

校歌に思う

学校案内に本校の校歌が紹介されているので、是非見ていただきたいです。どうでしょうか。校歌っぽくない校歌だと思いませんか。学校名が出てきません。地域の山や川の名前も出てきません。そして、一番しかありません。さらに、題名(タイトル)がついています。そのタイトルは「輝く未来」。かっこいいです。個人的にすごく気に入っています。歌詞もいいです。「新しい船をしたて 大きな夢見て 漕ぎだしてゆこう 広い世界へ 漕ぎだしてゆこう 」この歌詞の部分を歌う時、私はあるアニメのシーンを思い浮かべます。ご存じの方もいるでしょうか。かつてNHKで放送されていた「未来少年コナン」というアニメを。今はDVDでも出ています。このアニメのオープニングで、主人公の少年達が、船に乗り、海原を駆け出すシーンがあるのです。まさに、未来に向かって船を漕ぎ出す、この歌詞のイメージです。全校生でこの校歌を歌っていると、タイトルのとおり、輝く未来に向かって進んでいこうという元気な気持ちになります。いよいよ6日から、全校生103人で新しい未来に向かって、新しい船出です。

出会いと別れ

この時期に、いつも思うのは、教員という職業は、出会いと別れが宿命的な職業だということ。4月に、たくさんの子どもたちや先生方と出会い、そうして一年が過ぎれば、また多くの子どもたちや先生方とお別れをする。毎年毎年その繰り返し。だからこそ、大事にしたいのは、その出会いや別れが当たり前ではないということ。これは、「運命」。ちょっと違えば、出会うことがなかったかもしれない。だから、この運命的な出会いを大切にして、共に過ごせる日々を大事にしたいと思う。

「はい」に込める思い(その3)

そして、この卒業式で卒業生の「はい」の返事を、一番に楽しみにしているのは、間違いなく親である。6年前、1年生として入学した時にも「はい」と返事をした。あの「はい」の返事で始まった小学校生活が、6年経ち、卒業する時の「はい」の返事で終わるのである。親はその二つの「はい」の違いに、我が子の成長を感じるのである。だからこそ、卒業生はこの「はい」に、「聞いてください、僕はこんな『はい』を言えるまでに大きくなりましたよ。」「私の『はい』はどうですか、立派でしょう。今まで本当にありがとうございました」という思いをしっかり込めて、親に最後の「はい」を届けなければならない。たかが「はい」の返事ではあるが、卒業式の呼名で返す「はい」の返事には、このようなたくさんの思いを込めて行わなければならないのである。

「はい」に込める思い(その2)

6年生が6年生として、学校の中に存在する一番の理由は、下級生に手本を示すこと。下級生に手本を示せない6年生は、6年生としての責任を果たせていない。6年生は、その覚悟を持って、下級生の前に立たなければならない。本校の6年生21名は、この一年間、常にそのことを自覚し、そして、そのように行動してきた。立派な6年生である。その6年生が、最後の最後に下級生のために手本を示す場が、卒業式である。その中で、堂々と胸をはって歩き、しっかりと礼をしたり歌ったりすることこそが、下級生のためである。そして、そこで最後に聞かせる「はい」の返事は、その場にいるどの下級生達も決して真似できないような返事でなければならない。下級生に、(ああ、あんな返事なら、僕の方が上手に言える)などと思わせてはいけない。(なんて、すばらしい返事なんだ、あんな返事を私も言えるようになりたい)そう思わせてこそ、6年生の卒業式における「はい」の返事の姿だと思っている。(続く)

「はい」に込める思い

卒業生に返事の指導で話した内容である。学校生活の中では、自分の名前を呼ばれる場面はいろいろある。朝の健康観察から始まり、授業中の指名もあれば、廊下で呼び止められることもあろう。そういう時の「はい」という返事は、名前を呼ばれた時の返事である。しかし、卒業式の中で行う返事は少し違う。卒業式の中で、担任が呼名する前にこう話す。「卒業証書を授与される者」。もっと丁寧に言えば、「小学校6カ年の課程を修了し、卒業証書を授与される者」。つまり、6年間の小学校生活で、学ぶべき事を学び、身につけるべき事を身につけ、この度、小学校を卒業することを認められた者は、これから名前を呼ばれる者たちである、というわけだ。だから、続けて名前を呼ばれた者は、「今、名前を呼ばれたのは、わたしです。」「ぼくがその者です。」と式場内の人たちに告げるように返事をしなければならない。廊下で呼び止められて返す返事とは全く訳が違うのである。(続く)

すごくいい話

昨日、2年生が郡山へ電車を使って校外学習に出かけた。郡山で活動を終え、郡山駅から船引駅までの電車に乗った時のことである。行きは空いている座席がほとんどないくらい混んでいて、ずっと立っていった。帰りは、行きほど混んではいなかったものの、空いている座席はあちこちで、2年生の子どもたちがまとまって座れる状態ではなかった。仕方がないので、それぞれ空いているところに分かれて座ろうとした時、近くに座っていた男子高校生が声をかけてきた。「ぼくは向こうに座りますから、ここ、座ってください。」そう言って、座席をゆずってくれた。そのお陰で、2年生の子どもたちは近くにまとまって座ることができた。その男子高校生は同じ船引駅で降りたそうである。今どき、こういう高校生もいるのである。それも、同じ船引町にいると知っただけで、すごくうれしくなった。2年生の子どもたちは、この体験をきっと忘れずに、自分たちもこんな素敵な高校生になりたいと思ったにちがいない。

人としての最高の喜びは・・・その2

かつて、手話通訳などテレビで活躍し、その後、ステージパフォーマーとして講演会を行うことをしていた丸山浩路さんという方がおられた。その方が話されていたことである。「身体に障がいをもたれている方の中には、自分が不自由な生活をしているのは、周りのサポートが足りないからだ、と言う人がいる。実際にそうなのかもしれない。しかし、そうやって、何々が足りない、もっと何々してくれ、と周りに要求ばかりしている限り、その人は幸せにはなれない。そして、人としての最高の喜びを知らないまま、死ぬことになる。人は、身体に障がいを持っていようが、健康であろうが、子どもでも、大人でも、若者でも、お年寄りでも、どんな人でも、自分が誰かの役に立っているということ、自分の存在が他の人の喜びにつながっていること、それを感じることが人としての最高の喜びなのである・・・」自分がいることで、自分が何かをすることで、誰かが喜んでくれる。自分が生きていることで、誰かの助けになる。それこそが、人が人として生きていける力なのかもしれない。

人としての最高の喜びは・・・

私たち人間には欲がある。だから、日々、ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい、あれがほしい、これがほしい・・・と、その欲を満たすために心惑わせながら生きている。しかし、生きていると、自分の思うようにはいかないことがかなり多いことに気付く。多いどころか、ほとんどが自分の思うようにいかないのではないかと思う。。それもそのはず、この地球上には72億人もの人間がひしめき合い、生きている。その全ての人のそれぞれの欲がその人の思うようにかなうはずがないのである。だから、自分の欲や願いがかなうことはほとんどなく、私たちは思っていない、願っていないような状況で生きている。それが当然であり、それが当たり前であり、それがみんなに当てはまる事実なのだ。それなのに、私たちの周りには、自分の思うとおりにならないことに腹を立てたり、文句を言ったりして、自分の思うことを無理に通そうとする人がいる。自分が不幸なのは他の人のせいであり、もっと自分のためにしてほしいという要求をする。しかし、自分のために、周りにああしてほしい、こうしてほしいと求めてばかりいる限り、その人は人としての最高の喜びは味わえないように思う。(続く)

人間の究極の幸せとは

日本理化学工業という会社がある。チョークなどを製造している会社である。その会社の基本理念に「人間の究極の4つ幸せ」がある。それは、①愛されること ②ほめられること ③人の役に立つこと ④人に必要とされること である。これは創業者が、ある禅寺のお坊さんから聞いた話だそうだ。そして、この4つの幸せは、「働くこと」で得られるという。一生懸命働くことで、周りの人に認められ、愛され、ほめられ、役に立って、必要とさせる。学校でもそうだ。先日、6年生を送る会が行われた。6年生の子どもたちは、この一年、学校のため、下級生のために一生懸命取り組んできた。そのことに対して、下級生達は心から感謝している。きっとあの会を通して、6年生の子どもたちは幸せを感じていたに違いない。そして、あの会を企画運営した5年生の子どもたちも、自分たちが一生懸命準備した会で、喜んでくれる6年生の姿を見て、きっと幸せを感じていたに違いない。そして、自分たちがこれからもっともっと頑張っていこうと気持ちを新たにしたことだろう。

全員登校日

学校をお休みする場合、風邪や発熱などの病気による欠席、お家の都合でお休みする事故欠、そしてインフルエンザなどの病気による出席停止などがある。出席停止は欠席扱いにはならない。しかし、学校に登校していない(できない)という点では、他の欠席と同じである。本校の児童は98名である。この98名が、一人も休むことなく、全員登校した日を「全員登校日」としてカウントしている。4月7日から今日までで、この全員登校日は「64日間」になった。今日も全員登校した。授業日は、今日で181日あった。およそ3日に1日は98名全員が登校していることになる。これは、すばらしいことだと自負している。本校の児童は、本当に休まない。毎日、学校にきちんと登校してくる。これは、感謝の何物でも無い。なぜなら、私たち教師は、子どもたちが学校に来てくれるから、授業ができ、指導ができるからだ。学校に来てくれないことには、何も始まらない。だから、子どもたちに感謝。そして、毎日当たり前のように学校に子どもを送り出してくれる保護者の皆さんにも。

その場になってわかること

入学説明会で、来年度入学する園児たちを、今の1年生たちがお世話した。Aくんは、担当の女の子が描いた絵を「上手だね」とほめて、その子を喜ばせた。Bくんは、なかなか描けない男の子に、自分がお絵かき帳に描いた絵を見せてあげて、最後まで寄り添った。Cさんは二人の子を担当し、時間中あちらこちらと忙しそうに駆け回った。他の子どもたちもみな同じようにやさしく接してあげていた。きっと園児たちは、お世話してもらってうれしかった、楽しかった思い出をもって、4月に入学してくるに違いない。そして、1年生の子どもたちも、今回お世話をしたことで、来年2年生になる自覚や、今まで自分がお世話してもらう立場だったことを振り返るにちがいない。そういうことは、やはり、その場になって初めてわかることなのだ。だから、体験させることは大事なのだ。最初からうまくできなくてもいい。うまくできるかどうかより、その場に立つ経験こそを大事にしたい。

親は子の鑑

2日続けて、入園説明会、入学説明会と開催した。どちらにも共通していたのは、保護者の皆さんが、学校からの説明をきちんと聞いていたということである。当たり前のことのように思う方もいるかと思うが、巷にはこういう説明会に参加された保護者の方が、隣の人と私語をしながら聞いているところもあるという。しかし、本校・本園ではそういう保護者の方は一人もいなかった。みなさん、説明中はお話などせずに、こちらの話を聞いてくださった。ありがたい話である。そして、幼稚園でも小学校でも、それぞれ役員さんを決めた。その時も、それぞれ進んで快く引き受けてくださった。これもまたありがたい話である。親は子の鑑という。こういう保護者の方々に育てられている子どもたちである。みな、明るく元気で、そして素直である。4月に入学・入園してくるのが楽しみになった。