丸森日誌

日々の雑感をつれづれに・・・

続 出会いと別れ

出会いは大切。ならば、やはり、別れも大切になる。別れは寂しい。その人との関係が深ければ深いほど、別れがたくなる。そして、別れた後、深い悲しみが心に残る。ぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。時に、なかなかその悲しみから立ち上がれないことさえある。中国の昔のお話。子どもを亡くした母親が、あまりの悲しみから、その子の亡骸をずっと抱いたままいた。そのうち、亡骸は腐りかけ、それでも母親は放そうとしなかった。そこで、一人の僧が、その母親に「おまえの死んだ子を生き返られてあげよう」と話しかけた。母親は「どうしたらよいか」尋ねると、「悲しみを知らない人を探すことができたら、生き返られてあげよう」と僧は答えた。そこで、母親は、街中の家々を尋ね歩き、悲しみを知らない人を探した。しかし、ある家では、家族を事故で亡くし、ある家では、家族が重い病で苦しんでいた。親を幼い頃に亡くして、独りで生きている子どもにも会った。自分と同じように幼い子をなくした人にも出会った。そうして、探し歩くうちに、その母親は気づいた。それは、悲しみを背負って生きているのは、自分だけでないことに。そして、その母親は、声をかけた僧にお願いして、亡くなった我が子の弔いをしたのだった。悲しみは、つらい。しかし、その悲しみをきちんと受け止めることで、私たち人間は、他の人の悲しみを感じることができるのだ。相手の気持ちが理解できるのだ。そういう意味で、どんな別れも、きちんとお別れすることが大事なのだと、私は思う。

出会いと別れ

この時期は毎年のように、出会いと別れが繰り返される。今までどれほどの先生方や子どもたちと出会い、そして別れたことだろう。生きていれば、この出会いと別れは避けて通れない。そういう意味で、出会いと別れはすごく重要な意味を持つ。結論から言おう。それは、「運命は、誰と出会ったかで決まる」。およそ70億人が住むこの地球上において、同じ学校、同じ職場でその人達と出会う確率は、ものすごく小さいはずである。それは、まさに奇跡的な出会いと言える。そして、その人と出会ったことで、間違いなく自分の人生は影響を受け、変化していく。そういう意味で、それは運命的な出会いとも言えよう。時に、出会いたくないと思う人との出会いもある。それでも、その人と出会ったことで、某かの影響が、自分の人生にあるとするならば、それもやはり運命の出会いなのだ。「運命は、誰と出会ったかで決まる」そう考えると、せっかく運命的な出会いをしたわけだから、どんな人との出会いも、しっかりと受け止めたくなる。自分が主役のこの人生の舞台に、わざわざ登場してくれた全ての人との出会いを、まずはしっかりと受け止めたくなる。それが、「感謝」だ。自分と出会ってくれてありがとう、という気持ちをもつことだ。そのように、出会う人に感謝の気持ちをもって生きていく人の人生が、素晴らしい人生にならないはずがない。私はそう思っている。

チェンジするチャンス

毎年、思うことだが、6年生たちは卒業式を終えて、どんな気持ちなのだろうか。今まで通った小学校を去る寂しさだろうか。お世話になった先生方とお別れする悲しさだろうか。それとも、卒業したことの喜びや中学校というまだ未知の世界へ進むことへの不安だろうか。これは、大人でも子どもでも全ての人に言えることだが、自分にとって、今いるところが自分の世界なのである。いつ、どこで、だれと、どのようにしていても、今自分がいるところが自分の世界。だから、その自分の世界は常に変化し続けている。そして、その時その時に、自分の気持ちも変化し続けている。その瞬間、その瞬間にはいろいろな気持ちだったとしても、過ぎてしまえば、それはもう過去のこと、それ以上に今の瞬間の世界に切り替わっていく。そんな世界を私たちは生きているのである。そう考えると、小学校の卒業は、やはり一つの大きな節目なのかもしれない。言い方を変えると、小学校卒業は、自分を大きく変えるためのチャンスとも言える。いろいろな意味で、今までの自分から、新しい自分へチェンジするチャンスなのかもしれない。

返事について

ある地区の中学校の卒業式に出席した。厳粛な雰囲気の中で、中学生のすばらしい態度に感動した。式歌の歌声がまたすごかった。その中で、やはり注目したのは返事である。あの広い式場の中で、何百人といる中で、なんと堂々とした返事ができていたことか。きりっとした、はっきりとした「はい」という返事が響き渡ると、なんとも清々しい気持ちになった。こんな返事ができる中学生がすごくかっこよく、たくましく思えた。先日、本校の卒業式練習があった。その中で、証書授与の練習で、数名の6年生が呼名された。「はいっ」。こちらの返事も、実にはっきりと、力強く、堂々とした返事であった。この丸森日誌でちょうど1年前に、この卒業式における返事について書いた。卒業式で行う返事は、ただの返事ではない、ということを書いた。そこには、いろいろな思いが込められ、そして、今の自分ができる最高の返事でなければならないと思っている。そういう返事が、最初の練習から聞かれたことが、とてもうれしい。やはり、練習でできないことは本番でもできないからだ。きっと23日当日は、今以上に気持ちのこもった、素晴らしい返事が、式場に響き渡るにちがいない。楽しみである。

本物のすばらしさ

3月11日の福島民報朝刊に、「ふくしま新生へ挑戦」と題したメッセージが掲載されていた。その中で、震災から立ち上がり、福島県民は新たな挑戦をしていることや、その確かな成果が生まれていることが書かれていた。そこには、たくさんの苦労があり、ものすごく努力し続けていることだと察する。本当に頭が下がる思いである。特に、原発事故による影響、その後の風評被害は、なかなか簡単には解決できないことであった。それでも、震災から5年を経て、いろいろな面で変化が見られるようになった。記事にも、コメの全袋検査で基準値を下回ったことや県産野菜等の海外での輸入規制解除、魚介類の試験操業の拡大、そして、福島県産の日本酒の鑑評会における最高ランク評価獲得など、未来に向けた明るい期待が紹介されていた。そして、その後に続く言葉を読んで、ぐっと胸に迫る物を感じた。「福島県産は本物だ。世界で最も厳しいレベルの検査を経て出荷される。安全は折り紙付き、味は極上、品質は一流。世界ブランドとして堂々と売り込み、風評を払拭しよう。」そうなのだ。私たち福島県では、うそ、偽りのない、正真正銘、「本物」をつくっているのだ。微塵もごまかしなどない。安全で、安心して口にできる、そして、美味しいものなのだ。これが「本物のすばらしさ」だ。本物には力がある。きっと世界中の人に理解してもらえる、そう信じている。

サンコウチョウ?

朝早く、校舎周辺の巡視をしていたら、聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきました。すごくきれいで、それでいて、少し長めの鳴き声でした。これって、サンコウチョウ?と思いましたが、時期が少しずれているようなので、違う鳥かもしれません。ちなみに、サンコウチョウとは、漢字で「三光鳥」と書きます。名前の由来は、その鳴き声にあります。サンコウチョウの鳴き声は、「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」と聞こえることから、月・日・星の三つの光から、三光鳥と呼ばれています。図鑑などで見ていただくとわかるのですが、その容姿も特徴的で、すご長めの尾羽があり、きれいです。作る巣の形状も、かわいい丸い形をしているようです。朝、聞こえてきた鳴き声の正体は、なんなのか、いずれわかるといいなあと思いますが、鳴き声を聞いて、「あっ、◯◯◯だ」と分かったら、きっと楽しいだろうなあと思いました。

ボディ・イメージを育てよう!

今の子どもたちは、「ボディ・イメージ」が十分に発達していないといいます。ボディ・イメージとは「体の実感」のことです。具体的には次のようなことです。①自分の体の輪郭がわかる。②自分の体のサイズがわかる。③自分の体の傾きがわかる。④自分の体の力の入れ具合や抜き加減がわかる。⑤自分の体の伸ばし加減や曲げ加減がわかる。これらボディ・イメージが未発達だから、それが原因で次のようなことが起きます。周囲の人との距離感がつかめず、ぶつかりやすくなる。そのことで、不器用・雑・荒っぽいといわれる。自分の姿勢の傾き具合がわからず、姿勢がくずれやすい。そのことで、態度が悪い・やる気がないとみなされてしまう。力の入れ具合が分からないことから、他者への接触に鈍感で、逆に他者からの接触に敏感になる。そのことで、やった、やられたのトラブルが起きる。学校生活の中でも、このようなトラブルは、よく見かけます。その場合、行動面を指導するだけでは、なかなか解決しない要因の一つが、このボディ・イメージの未発達だと考えられます。子どもたち自身のボディ・イメージが育ち、発達するにつれ、そのようなトラブルは少なくなります。それには、日頃の生活の中で、体全体を使った活動やちょっとしたぶつかりあう経験を通して、加減を学んでいくしかありません。

入園・入学説明会を終えて

来年度の入園・入学説明会を終えた。1年前、この丸森日誌でも書いているのだが、本当に保護者の皆様には感謝である。お出でいただいた保護者の皆様には、こちらからの説明やお願いをしっかり聞いていただいた。なるべく不明な点がないように、準備の時に困らないようにと、説明資料も細かく、時間もそれなりにかけてお話しさせていただいた。それらを、最後まで聞いていただけて、本当に感謝である。皆さん、それぞれご家庭の事情もおありかと思うのだが、何とか都合をつけて来ていただいたことにも感謝。小学校の説明会ととなりの中学校の説明会が同じ日になってしまい、ご両親で分担されて参加いただいた方もおられた。このように、お家の方々が我が子のために一生懸命取り組まれていることを、当然のことと受け止めてはいけないと思っている。それよりも、このように熱心に協力いただいていることに感謝し、そして、それに学校側はしっかり応えていかなければならないのだと思う。改めて思うことは、本校のある地域、そして家庭が今回のように学校に対して、本当に協力的だからこそ、この地域の子どもたちは、とても素直に、明るく、子どもらしく、伸び伸びと育っているのだということである。

つなぐ

今、3年生以上の子どもたちは、休み時間や放課後に鼓笛の練習に取り組んでいます。これは、来年の新しい鼓笛隊としての練習です。そして、この練習には、6年生が大事な役目を果たしています。それは、「つなぐ」という役目です。自分たちが、先輩達から教えて頂いた鼓笛隊としての技を、下級生達に伝えるわけです。そこには、楽器の演奏やバトンの扱い方などの技術的なこともありますが、それだけではありません。練習に取り組む姿勢、始めや終わりのあいさつ、そして、鼓笛隊としての心構えなども伝えていきます。下級生達は、6年生からそういうことを教わりながら、しっかり受け継いでいきます。なぜなら、適当に受け継いでしまったら、それまでの形(そして、そこに込められた思い)が、違う形で伝わっていってしまうからです。運動会で保護者や地域の皆さんが、子どもたちの鼓笛隊の発表を見て、(懐かしいなあ)と感じるのは、そこに、大切なものを形を変えずに、きちんと伝わってきていることを感じるからだと思います。この大切なものが形を変えずに、きちんと伝わることを「伝統」と呼ぶのだと思います。

感じる心

花を見て、美しいと感じる。星空を眺めて、きれいと感じる。この場合、花や星空に「美しい」「きれい」な要因があるのではない。同じ花を見ても、同じ星空を眺めても、美しい、きれいと感じない人もいるからだ。つまり、私たちが「美しい」「きれい」と感じるのは、その人の心が、「感じる心」なのである。この「感じる心」、これを言い換えるならば、「やさしさ」である。「感じる心」は「やさしさ」。では、やさしさとは、何か。やさしさとは、相手の人生に自分との出会いを置かせていただくこと。そして、自分の人生に、その人との出会いを受け止めさせていただくこと。出会いを置かせていただき、受け止めさせていただく。それが「やさしさ」。人生は、一回こっきり。二度とない。その一度きりの人生において、主役は自分。自分以外の人は全て脇役。しかし、その脇役の方々が登場してくれるから、自分の人生は豊かなものになる。だから、例え、どんな人であろうとも、その人との出会いは、自分の人生において、全てかけがえのないものである。だから、感謝なのだ。よくぞ、私の人生に登場してくれました。ありがとう。そういう感謝の気持ちをもって、その人との出会いを受け止めさせていただく。そして、私という脇役を、その人が主人公の人生にも置かせていただく。それが、やさしさであり、感じる心なのである。(この話は、手話パフォーマーである丸山浩路さんの講演会で伺ったお話である。)

田村っ子のルール10に思う

昨日は、田村市の立志式が行われた。その要項の裏に「田村っ子のルール10」が掲載されていた。これは「あいさつをしよう」「うそはつかない」「はきものをそろえよう」などの10個の生活のルールである。私の郷里会津若松にも「あいづっこ宣言」なるものがある。こちらは、日新館の什の教えの現代版のようなもので「人をいたわります」「がまんをします」「夢に向かってがんばります」など六つの宣言が書かれてあり、最後に「ならぬことはならぬものです」と結んでいる。田村っ子もあいづっこも、どちらも似ているのだが、あいづっこは、どちらかというと精神的な面が多く、田村っ子は、具体的な行動面を示しているように思う。そして、田村っ子のルール10には、次のような文が書かれている。「あたりまえのことをあたりまえに思ってあたりまえに行動する」。私は個人的にこの部分が気に入っている。田村っ子のルール10は、ルールではあるが、それを破ったりしなかったりした時のペナルティーはない。しかし、自分が人として生きていく上で、よりよく生きていくためには、このルールを守らないよりは守ったほうがいい。そして、なぜ、そうするのかというと、それは、そうすることが「人として生きていく上であたりまえのことだから」。やりたくないからしない、ではないのだ。そうすることがあたりまえのことだからやるのである。だからこそ、この田村っ子のルール10は、学校だけで教えるものではなく、家庭、地域一緒になって、教えていかなければならないのである。

好きな言葉

私が子どもの頃、我が家には「名言・格言カレンダー」なるものがあり、そこにいろいろな人の名言・格言がのっていました。その中から、家族一人一人が、自分の好きなお気に入りの言葉を選んでいました。前回紹介しました「施して報いを願わず、受けと恩を忘れず」の言葉は、私の両親の好きな言葉でした。私の兄が好きな言葉は「人生二度なし」。これは、哲学者、森信三の言葉。妹の好きな言葉が「笑顔は人生の花」。今、思うことは、それぞれの家族が、自分の好きな言葉のように生きているなあということ。両親は、周りの人からいろいろと頼りにされ、相談を受けることが多く、それらを嫌な顔一つせず応対していました。兄は、中学から始めた剣道をずっと続け、まさに剣の道一筋に生きています。妹は、言葉のとおり、いつも笑顔で楽しそうに周りの人に接し、周りの人も笑顔にさせています。では、私はと言うと、好きな言葉は「いまやらねば、いつできる。わしがやらねば、だれがやる」。これは、彫刻家の平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の言葉。今やれることに、今やれる力を惜しむことなく注ぐ。自分がやれることには、人任せにすることなく、精一杯取り組む。そのように生きていきたいと、常に思っています。

日本人の真心 その2

同じく日本人の真心をテーマに取り上げた映画が、「海難1890」である。この中で紹介されている「エルトゥールル号遭難事件」は、6年生の社会科の教科書にも取り上げられている。実はかつて6年生の社会の授業をした時に、そのエルトゥールル号遭難事件と、それから100年近く経ったあとのイラン・イラク戦争でのトルコ救援機による日本人救出のことを取り上げたことがあった。だから、今回、その二つの出来事が映画になったことを知り、とてもうれしかった。映画はまさに、前述した「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」であった。自分たちの貧しい暮らしを犠牲にしてまで、異国の遭難者達を救出し、介抱した和歌山県の漁村民たち。そして、そのように自国の先祖達が助けてもらったことを、ずっと忘れずに語り伝え、そして、100年後、今度はその恩を返すのは自分たちの番だと、自分たちにも危険が迫っている状況で、日本人達を救ってくれたトルコの人たち。人間って、なんてすてきなんだと改めて感じることができた。この出来事や杉原千畝のような人物がいたことを、多くの日本人が知り、そして、自分たちが日本人として、人間として誇りを持って生きていくことをできるといいなあと思う。

日本人の真心

年末の映画の中に、日本人の真心をテーマに取り上げている映画があった。その一つが「杉原千畝」。日本のシンドラーと称される彼の業績は、まさに日本人としての真心である。その彼の真心を作り出したのが、彼が学んだハルピン学院の教えでもある。ハルピン学院校訓「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」である。私は、これを知った時、ある言葉を思い出した。それが「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」である。これは、大隈重信の言葉とも言われるが、江戸時代の中根東里(なかねとうり)という儒学者の言葉のようである。困っている人がいたら手をさしのべる。そして、そのことで相手になにか見返りを求めたりはしない。しかし、逆に、自分がだれからか助けていただいたのなら、そのことは決して忘れてはいけない。そして、今度は自分がだれか困っている人はいたら助けてあげる。これは、日本人に限らず、人としての生き方でもあると思うのだが、悲しいことに、このような生き方・考え方は今やどこかにいってしまったのかと思う時がある。何かしたら見返りを求める。それを当然のように主張する。自分だけ施すことは損だという。そういう温かいの血が流れていないような態度・考え方。杉原千畝の生き方を知ることで、損得だけでない、真心をもって対応することの素晴らしい、美しさを感じてもらえたらと思う。

親の心が軽くなるハッピーな子育て術 その2

 してはいけないことの三つ目、「兄弟と比較しないこと」。全くおまえはダメなんだから、等と比較されて否定的なことを言われた子どもは、自分に自信を持てない子になる。だから、全ての子に「自分が一番愛されている」と感じさせることが大事。
 これらしてはいけないことを親はしないこと。そして、子どもがどんな悩みも打ち明けられる親になること。そのためには、親自身が、人間的に成長することが大切。それは、本気で生きている姿や深く自分を見つめる姿を、子どもに見せること。親が子どもに本気で仕事に打ち込み、深く自分を見つめ、悩み、それでも前に進もうとする姿を見せること。

 男の子を育てている親へ。将来、息子が就職、結婚等で自立できるように、男の子にこそ、しっかり家事を手伝わせること。そうして、フットワークのいい子に育てる。女の子を育てている親へ。人間関係で悩んだ時、ちゃんとSOSを出してもらえるように、弱音を吐ける家庭を作っておくこと。そのためには、親自身が家庭内で弱音を吐くモデルになること。

 家庭内で、肯定的な言葉「ごねんね、おねがいね、ありがとうね」を循環させる。親自身のスキンシップを大事にする。そして、自分のことが自分でもわからない思春期でも、会話を大事にし、子どもにはそうした方がいいことを伝える。そのキーワードは「あなたなら、できるよね~」

 あっという間の2時間の講演会であった。参加いただいた皆様、ありがとうございました。

親の心が軽くなるハッピーな子育て術 ~諸富氏講演会より~

 とにかく笑いの絶えない、とても楽しく、それでいて納得してしまう内容の講演会であった。以下に話の概要を抜粋して掲載する。

 子育ては・・・なるようにしかならない。まさに、子育ては運。いつ、いかなる時に、子どもがよくもわるくも変わるかは、正直わからない。ただ、言えることは、なるようにしかならない。言い換えると、なるようになることが大事。つまり、親の立場から言えば、親が子どもの成長を邪魔しないことが一番。それは、親として子どもに「してはいけないこと」をしないことである。子どもの成長にとって、一番大事なことは、親の心が安定していること。だから、してはいけないことの一つ目は、「イライラ、カリカリを子どもにぶつけないこと」。もし、いらいらしてきたら、親の方が子どもから一歩引く。場合によっては、子どもから離れること。そして、場所を変え、イライラカリカリを解消してくる。いらいらして、子どもと対等にやり合うということは、親が「子ども」と同じ立場になっているということ。親は、「大人」なのだから、「子ども」になってはいけない。やってはいけないことの二つ目は、「否定的なことを言わないこと」何やってるの、ダメなんだから、馬鹿、しょうがない等の否定的なことを言われ続けた子どもは、自分自身そういう子なんだと受け止めてしまう。そうではなく、肯定的なことを子どもには言うことが大事。さすが、いいね、じょうずだね、大丈夫、きっとできるよ、ここまでできたね、すごいね等。(次回に続く)

「できない」ということ

以前、ある学校で「どうせぼくにはできない」という子に対して、「なぜ、やってもいないのにできないと決めつけるのか」と叱責したことがある。「できない」というのに二通りあるのだ。一つは「やってできないこと」。もう一つは「やろうとしないからできないこと」。この二つは、どちらも「できない」点では同じだが、その内容は雲泥の差がある。やった結果できない方は、そのままあきらめずにやり続ければ、いずれ「できる」可能性がある。事実、今年になって一輪車に初めて乗った女の子が、毎日毎日、休み時間一輪車の練習に取り組んだ。何度も転びながら、それでもあきらめずに毎日毎日一輪車にまたがった。そうしたある日、その子は手すりから1m進んだ。しばらくすると2m、3mと距離を伸ばしていって、今では誰よりもすいすい一輪車に乗っている。その過程を見ていた私は、改めてあきらめずに続けることはすごいことだと感心した。一方、やろうとしないからできない方は、きっとこの先もずうっとできないままである。できる可能性はゼロだ。子どもたちはなんでもできるようになる可能性で満ちている。すべては、その子自身の気持ち次第。だからこそ、「やってできない」のか、「やろうとしないからできない」のか、この二つは常に区別して考えなければならない。

学習発表会を振り返って その3

幼稚園は、今年、年少のうさぎ組と年長のぞう組の、それぞれの発表をした。おそらく、うさぎ組の園児たちは、今回のどの学級の発表より、一番早くに完成していた。発達段階もあろうが、早くから練習に取り組み、繰り返し練習してきたことで、本番でも堂々と自信をもって踊ることができていた。ぞう組は男の子が5人である。この5人でピノキオの劇を行った。おそらくストーリーをどう展開させるか、配役をどうするか苦労したことと思う。それでも、せりふもちゃんと覚えて大きな声で言えていたし、動きもみんなでそろえて振り付けもできていた。さすが年長さんである。特設合唱部の発表もあった。コンクールで披露した曲の他に、新たに2曲を加え、発表した。歌声もそうであるが、前よりさらに、指揮者に集中して歌っている様子がみられた。温かい優しい気持ちになる歌声だった。こうして振り返ると、今年の学習発表会は、バラエティに富んだ、見ていてとても楽しくなるものだった。そこには、自分たちの発表をすることに、一生懸命取り組んだ子どもたちがいて、そういう子どもたちのよさを生かした発表をさせたいという強い思いをもった担任がいて、それに労を惜しまずバックアップする担任外の先生方がいて、そして、協力をおしまない地域の方々、保護者のみなさんがいて、そして、当日、会場に集まり、一心に子どもたちの発表に拍手を送ってくださったみなさんがいたからこそ、達成できたのである。本当に心から感謝である。

学習発表会を振り返って その2

6年生は、ある意味、5年生の劇とは真逆のものに挑戦した。それは、ストーリーから台詞、役、衣装などなど、全てオールオリジナル、全部手作りの創作劇である。基本コンセプトは、社会科で学習した日本の歴史。その中で、いろいろな歴史上の人物が登場し、ある部分は史実に基づき、ある部分は全くの空想、ノンフィクションの展開で構成されていた。ちゃんと時代劇の定番、悪代官と越後屋も登場し、「おぬしも悪よのう」の決めぜりふも出た。そこに、歴代の正義の味方、遠山の金さん、銭形平次、暴れん坊将軍、そして水戸のご老公まで出てくるのだから、それもそれぞれのお決まりの曲にのって登場とあれば、予行と違って、年齢層の高いお客さんがどっとわくのは当然である。しかし、これが単なるおふざけかと言うとそうではない。その後は、太平洋戦争、原爆にもふれ、最後は、人類の長い歴史は、その時代時代で争い事、いくさ、戦争が繰り返させてきたこと。だからこそ、大事なのは平和、相手を思いやることだと締めくくっている。およそ30分にも及ぶ大作の創作劇であった。これに費やしたエネルギーはいかばかりかと思う。そして、この劇を創り上げるのに、6年生の子どもたちが実に嬉々として取り組んでいた様子が忘れられない。まさに、自分たちの手による、自分たちしかできない、自分たちの発表を本気・全力100%で行い、見ている人を楽しませることをとことん追究した内容だった。

学習発表会を振り返って その1

1年生は国語科で学習した「くじらぐも」を劇化した。自分たちで白いお花紙で大きなくじらぐもも作った。くじらぐもにのるシーンでは、練習でなかなかタイミングが合わなかったが、本番ではぴったりジャンプのタイミングがあって、元気よく表現できていた。2年生は、早いテンポのリズムに乗ってダンスした。練習からノリノリで取り組み、毎回汗びっしょりになって踊った。本番でも、入場から退場までダンスのイメージに合った曲に合わせて、からだいっぱい表現できた。3年生は各チームに分かれて、自分たちの得意なことを、サーカス団になって発表した。フラフープを10本回したり、一輪車で大技を披露したり。パントマイムやマジシャンまで登場して、一つのサーカスショーになっていた。4年生は、総合学習の地域の太鼓を取り上げ、それぞれの地区の太鼓演奏と、よさこいソーランを踊った。太鼓や法被の借用からダンス指導まで、多くの地域の方に協力いただいた。それに応えるように、力強く、きれよく、まとまって太鼓をたたき、よさこいを踊った。4年生の新たな一面が見られた発表だった。衣装のはちまきや旗飾りの作りにも、みんなで取り組んだ。5年生は、言わば正統派の学校劇に取り組んだ。台詞をしっかり覚え、衣装や小道具もきちんと準備し、動きや台詞の言い回しをとことん練習して作り上げた劇だった。予行の反省を踏まえ、本番ではよりよい発表に仕上げてきた。個性的な役も自分たちのものにして演じた。さすが5年生!という発表だった。