丸森日誌

日々の雑感をつれづれに・・・

マラソン考

田村富士ロードレース大会に参加した子どもたちは、みな完走することができた。2kmとはいえ、多少アップダウンのあるコースだったようで、走るのがあまり得意ではない子どもたちにとっては、かなりきついレースだったと思う。それでも、途中、苦しくなったり、足が痛くなったりしながらも、最後まで走りきったことは、本当にすばらしい。この「最後まで走りきる」ことこそが、マラソン(長距離)の大事な目的である。我が福島県には、これまで数々のマラソンの名ランナーが存在するが、私と同郷の会津出身のマラソンランナーに、佐藤敦之選手がいる。彼は全盛期に、北京オリンピックのマラソン選手に選ばれ、出場している。しかし、大会間際に体調を崩し、力を発揮することができなかった。レースが始まるや、徐々に後退していった。普通の選手は、体調が悪く、さらに、順位を落としていったら、途中で棄権することが多い。しかし、佐藤選手は、途中で棄権することなく、最後まで走りきり、参加選手76人中、最下位の76位でゴールしたのだった。私は彼の姿こそ、マラソンをする者のあるべき姿だと思った。たとえ最下位になろうとも、あきらめることなく、必死にゴールを目指す。11月12日、本校ではマラソン大会が予定されている。ここで目指すことは、全員の完走である。

学ぶ楽しさ

前回の「親の思いを知る」話の中で、「新しいことを学ぶことが楽しいようだ」と書いているお家があった。他にも、「学校で勉強したことを、帰ってくると楽しそうに話してくれた。」と書いているお家も多く見られた。これらは、まさに子どもたちが「学ぶ楽しさを味わっている」ことだと思った。学ぶ楽しさとは、知らないことを知った時の喜びである。わからなかったことがわかった時、できないことができた時の喜びである。私たち人間は、そうやって学ぶ喜びを味わうことができるから、一生学ぶのである。学ぶという行為は、子どもたちだけのことではない。大人になってからも、学ぶことはできる。どんなに年をとろうとも学ぶことはできるのだ。ご高齢のジャーナリストむのたけじ氏は、著書「詞集たいまつ」の中で、こう述べている。「人は学ぶ生き物である。学ぶことは生きること。生きることは学ぶこと。学ぶことをやめれば、生きることをやめることである。」・・・なんとも厳しいお言葉ではあるが、やはりそうなんだなあと思う。学ぶことは、机に座って本を開くことだけではない。レストランに入って、おいしい料理を口にした時、それがどうしておいしいのかを知ることだって学ぶことである。釣りをしていて、どんなえさなら釣れるのか、あれこれ試すことだって学ぶことである。そして、私たち大人が、目の前の子どもの言動から学ぶことだってあるのだ。

親の思いを知る

本校の通知表は、「教育通信 みなみっ子」。今年度、前期の通知表の形を昨年度と変えた。これまでは、前期・後期ごとに家庭に配付して回収しないタイプだった。それを、ファイルの形にして、前期と後期の両方を綴じる形にしたのだ。そして、前期配付した後、後期の始めに回収した。その際、「保護者から」の欄を設けた。そこに、保護者の方に、感想や意見、家庭での様子など自由に記述いただいた。回収したものを拝見させてもらった。「入学した頃は、いろいろと心配なことがあったが、だんだん慣れてくると、元気に学校に行けているようでよかった。」「初めてもらった通知表を家族みんなで見て、がんばっていることをほめた。すごくうれしそうだった。」「この調子で、これからもいろいろなことに挑戦してほしい。」「家ではのんびりマイペースで、これで大丈夫なのかと思ったが、学校ではこの子なりにがんばっていることがわかってうれしかった。」「毎日、新しいことを学ぶことが楽しいようだ。」・・・。この「家庭から」の欄には、保護者の方の我が子への愛であふれていた。読んでいて、すごく温かい気持ちになった。このようにお家でも愛されている子どもたちだから、素直な子どもたちに育つのだと思った。

「おめでとう」「ありがとうございます」

前期終業式の後、表彰があった。それぞれのコンクール等の表彰が行われ、最後に市陸上大会の表彰があり、入賞した6年生たちが賞状を受け取った。校長先生が読み上げて、本人に「おめでとう」と声をかけて賞状を渡した。すると、6年生の子どもたちはみな「ありがとうございます」としっかりと返事を返しながら賞状を受け取ったのだった。ここまでしっかりと声を出して賞状をもらう姿は下級生の中にはいなかった。しかし、6年生はその場にいた全員に聞こえる声で、「ありがとうございます」とあいさつを返しながら賞状をもらっていた。すごくいいなあと思った。式が終わった後、担任にそのことを尋ねると、やはり終業式前にきちんと事前指導していたのだった。やはり、子どもたちは指導されていないことはできない。それも、ただ「そうしなさい」では、子どもはできない。どうしてそうするのか、なぜそうするのがよいのか、そのところを指導しなければ、できないのだ。「おめでとう」と言われたら、「ありがとうございます」ときちんと返すことは、当たり前のことではある。でも、それを表彰という場でも、当たり前のようにできることは、やはりすばらしい。このことは、その場にいた下級生達にとって、とてもいいお手本でもあった。次の表彰では、6年生のように賞状をもらう下級生がふえるに違いない。

「そのままつづけてください!」

子どもたちは、時に大人達が思いもしないような、行動をすることがある。幼稚園で人形劇を鑑賞中、一人の子どもが体調が思わしくなく、ちょっともどしてしまった。突然の出来事に、先生方は拭き取るためのティッシュや汚れてしまった服の交換などのために、動き出そうとした。と、その時、そのもどしてしまった子どもが、目の前で人形劇を中断していた劇団の方に、「そのままつづけてください!」と言ったのだ。予想外の子どもの言動に、劇団の方は驚くとともに感動し、「それでは、つづけてくださいということなので、劇を続けますね」と言って、人形劇を続けたのだった・・・。この話を聞いて、びっくりした。幼稚園児である。幼稚園の子どもが、この対応。大人だって、そんなこと言えないかもしれない。子どもってすごいと改めて思った。そして、この話には続きがある。汚れた服を交換して、その替えの服に、その時お邪魔していた幼稚園の併設している小学校のジャージを持ってきてくださった。そして、「今日だけ違う学校の子どもになろうか」と声をかけたところ、その子はそのジャージに着替えることを拒んだのだ。理由は口にしなかった。なんとか、ズボンははいたが、上のジャージはとうとう最後まで着なかったのだった。どうして着なかったかはわからない。しかし、なんとなく、そこに自分の幼稚園や小学校に対する思いみたいなものがあったのかなあと勝手に想像してみた。そして、子どもって、私たち大人が思っている以上に、いろいろなことを考えて生活しているのでないかと思った。

「だって、たのしみなんだもん!」

1年生のSくんが、校務センターの窓越しににこにこしていました。行って話しかけました。「なんか、うれしいことでもあるの?」するとSくん、さらににこにこしながら「だって、たのしみなんだもん!」「そう、なにがたのしみなの?」「きんようび!!」・・・金曜日?あっ、キッザニアだ。「キッザニアに行くのが楽しみなんだ。そうか、ところで、Sくんはキッザニアで何のお仕事をしたいのかな?」すると、すかさず「おかしこうじょう!」「あっ、そう。おかしこうじょうかあ、いいねえ。つぎは?」「つぎは、そふとくりーむしょっぷ!!」この会話中、ずっとにこにこのSくん。廊下に貼り出してあるキッザニアの地図を見ながら、きっと行きたいところを友だちと話していたのでしょう。他の休み時間、6年生の男の子にも聞いて見ました。「Kくん、キッザニアで何をやりたいの?」「ぼくは裁判所に行きたいです」おっー、さすが、6年生。きっとものすごく貴重な体験になるだろうなあと思いました。そして、こんなにも子どもたちがキッザニアに行くのを楽しみにしてくれているとわかって、こちらもすごくうれしくなりました。

陸上大会に想う その2

その子は800mに出場した。目標は3分00秒台で入賞すること。800mの練習はかなりきつい。坂道ダッシュもあれば、インターバル走もある。同じペースで校庭を何周も走った。途中で弱音をはくことはなかった。800mの他にリレーのアンカーにもなった。最初、リレーのアンカーは、あまり乗り気でなかった。理由は、最後に抜かされたらいやだから。でも、自分がアンカーをやることに正式に決まってからは、覚悟を決めて練習に取り組んだ。当日は、リレーの予選が最初にあった。結果は、決勝にはいけなかった。残りは800m。そこで、全てを出し切ろうと決めた。レースが始まった。スタートからの早いペースに少しずつ離されていった。そして、いよいよラスト200m。そこから、最後の追い上げがすごかった。まさに全力、全ての力を出し切って、目の前の選手を追い上げた。ぐいぐいと、どこにまだそんな力が残っていたのか。ゴールが迫る。前の選手の背中がもう目の前だ。その時、彼女は(ぬきたい!)そう強く思った。そして、本当に最後の力をふりしぼった。そして、そのままゴール。おしくもぬけず、結果、彼女は9位。8位入賞まで、わずか0.03秒差だった。おしかった。入賞できなかった悔しさはある。しかし、全力を出し切った満足感でいっぱいだった。そして、この大会での頑張りが、自分への自信につながった。私はできる!I can do it !

陸上大会に想う

女子走り高跳びで入賞した女子がいる。彼女は、それまでベストが115cm。それ以上は跳んだことがなかった。しかし、昨年度の大会の1位の記録は113cm。だから、上位入賞はできるだろうと思われていた。本番当日、なんと113cmを5人も跳んだのだ。次の高さは116cm。1回目の試技で一人だけ跳び、あとの4人は失敗。その中に、本校の子もいた。彼女にとっては116cmは未だ未知の高さ。2回目、他の3人がクリア。その子の番が来た。すると、なんと見事、クリアできた。ベスト記録達成!次は、119cm。1回目で一人跳び、2回目でもう一人が跳んだ。3回目、先の2名がクリアし、彼女の番が来た。その時、どんなことを考えていたのか?後で聞いて見たら、「自分も跳ばなきゃ」そして、「自分も跳べる!!」と思っていたのだった。結果は・・・。彼女は見事119cmを跳んだのだった。もし、心のどこかで(だめかも・・・)と思っていたら、きっと跳べなかったと思う。しかし、その時の彼女は自分の力を信じていた。私はできる!  I can do it ! その後、成功して、飛び上がって喜ぶ彼女の姿が遠くから見えた。次の瞬間、彼女は他の学校の選手とハイタッチして一緒に喜び合っていた。上位の記録で競い合う仲間には、時にある連帯感が生まれる。つらい練習を乗り越えて本番の舞台で競い合う者だけがわかり合える、成功した時の共感できる喜び。すごくいいなあと思った。

わたしの仕事でない仕事

学校とは限らないことではあるが、職場には「わたしの仕事」と「わたしの仕事でない仕事」の2種類が存在する。先日、急遽陸上大会用のゼッケンを50枚作成することになった。白布を注文し、アイロンプリントで文字を作成し、布を裁ち、縁をミシンで縫い、最後に文字をプリントして完成。これらの作業は、全て誰がやると決まっていない「わたしの仕事でない仕事」であった。本校では、ゼッケン作りが決まった時から、誰とはなしに作業を進めて、2日間で既製品のようなゼッケンを作り上げた。みな、それぞれ本来やるべき「わたしの仕事」が当然ある。その上で、このような「わたしの仕事でない仕事」を快く引き受けて取り組んで頂けることに感謝である。他にも、資源物回収で使用したブルーシートを干して、きれいに片付けてくれる人がいる。連日の雨で荒れた校庭を整地してくれる人もいる。風が強くて倒れやすくなったアサガオのプランターを、ひもで倒れないように固定してくれる人がいる。校舎前の花壇の草が伸びてくると、きれいに除草してくれる人がいる・・・。もし、一人一人が「わたしの仕事」以外はやらなかったら、きっと職場はぎくしゃくとした働きにくいところになるだろう。「わたしの仕事でない仕事」に気づいた人が、進んでやってくれるから、職場にあふれるいろいろなことが、スムーズに回り出し、結果、働きがいのある、働きやすい職場になるのかもしれない。そのような職場で働けることを本当に幸せだと思った。

思いやりとは?

先日、東京都立青山特別支援学校の川上氏の話を聞く機会があった。講演の冒頭で川上氏が聞いてきたのが、タイトルにある「思いやりとは?」の質問だった。みなさんは、どうお考えになるだろうか。相手の立場に立つ、相手の気持ちを考える、困っていることを助けてあげる・・・いろいろと思いつく。氏のこたえは、「思いやりとは、相手の〇〇に気づくこと」。さあ、〇〇に当てはまる言葉はなんだろうか。それは、「価値」。「思いやりとは、相手の価値に気づくこと」。なるほど、と思った。価値とは、そのものが持っている値打ち、大切さ。だから、思いやりとは、相手がどのように大切かに気づくことである。この世の中で、価値のない人はいない。だれもが、生まれてきた価値、生きている価値があり、その人ならではのよさがある。まずは、そのことに気づくことから始まる。とっても深い話だった。まとめの話が、「特別支援教育ってどんな教育?」について。それに対して氏は、特別支援教育は、「できない子」「ダメな子」の教育ではないという。子どもを輝かせるための制度の一つである。だから、特別支援教育は、『うまくいかない』ことがある子どもの、『価値』を高める教育であると述べていた。すごく考えさせられる話だった。