丸森日誌

2015年3月の記事一覧

出会いと別れ

この時期に、いつも思うのは、教員という職業は、出会いと別れが宿命的な職業だということ。4月に、たくさんの子どもたちや先生方と出会い、そうして一年が過ぎれば、また多くの子どもたちや先生方とお別れをする。毎年毎年その繰り返し。だからこそ、大事にしたいのは、その出会いや別れが当たり前ではないということ。これは、「運命」。ちょっと違えば、出会うことがなかったかもしれない。だから、この運命的な出会いを大切にして、共に過ごせる日々を大事にしたいと思う。

「はい」に込める思い(その3)

そして、この卒業式で卒業生の「はい」の返事を、一番に楽しみにしているのは、間違いなく親である。6年前、1年生として入学した時にも「はい」と返事をした。あの「はい」の返事で始まった小学校生活が、6年経ち、卒業する時の「はい」の返事で終わるのである。親はその二つの「はい」の違いに、我が子の成長を感じるのである。だからこそ、卒業生はこの「はい」に、「聞いてください、僕はこんな『はい』を言えるまでに大きくなりましたよ。」「私の『はい』はどうですか、立派でしょう。今まで本当にありがとうございました」という思いをしっかり込めて、親に最後の「はい」を届けなければならない。たかが「はい」の返事ではあるが、卒業式の呼名で返す「はい」の返事には、このようなたくさんの思いを込めて行わなければならないのである。

「はい」に込める思い(その2)

6年生が6年生として、学校の中に存在する一番の理由は、下級生に手本を示すこと。下級生に手本を示せない6年生は、6年生としての責任を果たせていない。6年生は、その覚悟を持って、下級生の前に立たなければならない。本校の6年生21名は、この一年間、常にそのことを自覚し、そして、そのように行動してきた。立派な6年生である。その6年生が、最後の最後に下級生のために手本を示す場が、卒業式である。その中で、堂々と胸をはって歩き、しっかりと礼をしたり歌ったりすることこそが、下級生のためである。そして、そこで最後に聞かせる「はい」の返事は、その場にいるどの下級生達も決して真似できないような返事でなければならない。下級生に、(ああ、あんな返事なら、僕の方が上手に言える)などと思わせてはいけない。(なんて、すばらしい返事なんだ、あんな返事を私も言えるようになりたい)そう思わせてこそ、6年生の卒業式における「はい」の返事の姿だと思っている。(続く)

「はい」に込める思い

卒業生に返事の指導で話した内容である。学校生活の中では、自分の名前を呼ばれる場面はいろいろある。朝の健康観察から始まり、授業中の指名もあれば、廊下で呼び止められることもあろう。そういう時の「はい」という返事は、名前を呼ばれた時の返事である。しかし、卒業式の中で行う返事は少し違う。卒業式の中で、担任が呼名する前にこう話す。「卒業証書を授与される者」。もっと丁寧に言えば、「小学校6カ年の課程を修了し、卒業証書を授与される者」。つまり、6年間の小学校生活で、学ぶべき事を学び、身につけるべき事を身につけ、この度、小学校を卒業することを認められた者は、これから名前を呼ばれる者たちである、というわけだ。だから、続けて名前を呼ばれた者は、「今、名前を呼ばれたのは、わたしです。」「ぼくがその者です。」と式場内の人たちに告げるように返事をしなければならない。廊下で呼び止められて返す返事とは全く訳が違うのである。(続く)

すごくいい話

昨日、2年生が郡山へ電車を使って校外学習に出かけた。郡山で活動を終え、郡山駅から船引駅までの電車に乗った時のことである。行きは空いている座席がほとんどないくらい混んでいて、ずっと立っていった。帰りは、行きほど混んではいなかったものの、空いている座席はあちこちで、2年生の子どもたちがまとまって座れる状態ではなかった。仕方がないので、それぞれ空いているところに分かれて座ろうとした時、近くに座っていた男子高校生が声をかけてきた。「ぼくは向こうに座りますから、ここ、座ってください。」そう言って、座席をゆずってくれた。そのお陰で、2年生の子どもたちは近くにまとまって座ることができた。その男子高校生は同じ船引駅で降りたそうである。今どき、こういう高校生もいるのである。それも、同じ船引町にいると知っただけで、すごくうれしくなった。2年生の子どもたちは、この体験をきっと忘れずに、自分たちもこんな素敵な高校生になりたいと思ったにちがいない。

人としての最高の喜びは・・・その2

かつて、手話通訳などテレビで活躍し、その後、ステージパフォーマーとして講演会を行うことをしていた丸山浩路さんという方がおられた。その方が話されていたことである。「身体に障がいをもたれている方の中には、自分が不自由な生活をしているのは、周りのサポートが足りないからだ、と言う人がいる。実際にそうなのかもしれない。しかし、そうやって、何々が足りない、もっと何々してくれ、と周りに要求ばかりしている限り、その人は幸せにはなれない。そして、人としての最高の喜びを知らないまま、死ぬことになる。人は、身体に障がいを持っていようが、健康であろうが、子どもでも、大人でも、若者でも、お年寄りでも、どんな人でも、自分が誰かの役に立っているということ、自分の存在が他の人の喜びにつながっていること、それを感じることが人としての最高の喜びなのである・・・」自分がいることで、自分が何かをすることで、誰かが喜んでくれる。自分が生きていることで、誰かの助けになる。それこそが、人が人として生きていける力なのかもしれない。

人としての最高の喜びは・・・

私たち人間には欲がある。だから、日々、ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい、あれがほしい、これがほしい・・・と、その欲を満たすために心惑わせながら生きている。しかし、生きていると、自分の思うようにはいかないことがかなり多いことに気付く。多いどころか、ほとんどが自分の思うようにいかないのではないかと思う。。それもそのはず、この地球上には72億人もの人間がひしめき合い、生きている。その全ての人のそれぞれの欲がその人の思うようにかなうはずがないのである。だから、自分の欲や願いがかなうことはほとんどなく、私たちは思っていない、願っていないような状況で生きている。それが当然であり、それが当たり前であり、それがみんなに当てはまる事実なのだ。それなのに、私たちの周りには、自分の思うとおりにならないことに腹を立てたり、文句を言ったりして、自分の思うことを無理に通そうとする人がいる。自分が不幸なのは他の人のせいであり、もっと自分のためにしてほしいという要求をする。しかし、自分のために、周りにああしてほしい、こうしてほしいと求めてばかりいる限り、その人は人としての最高の喜びは味わえないように思う。(続く)

人間の究極の幸せとは

日本理化学工業という会社がある。チョークなどを製造している会社である。その会社の基本理念に「人間の究極の4つ幸せ」がある。それは、①愛されること ②ほめられること ③人の役に立つこと ④人に必要とされること である。これは創業者が、ある禅寺のお坊さんから聞いた話だそうだ。そして、この4つの幸せは、「働くこと」で得られるという。一生懸命働くことで、周りの人に認められ、愛され、ほめられ、役に立って、必要とさせる。学校でもそうだ。先日、6年生を送る会が行われた。6年生の子どもたちは、この一年、学校のため、下級生のために一生懸命取り組んできた。そのことに対して、下級生達は心から感謝している。きっとあの会を通して、6年生の子どもたちは幸せを感じていたに違いない。そして、あの会を企画運営した5年生の子どもたちも、自分たちが一生懸命準備した会で、喜んでくれる6年生の姿を見て、きっと幸せを感じていたに違いない。そして、自分たちがこれからもっともっと頑張っていこうと気持ちを新たにしたことだろう。