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田村市立瀬川小学校は、新しい美山小学校のホームページと統合しました。
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瀬川っ子 頑張っています!

校長の自由研究③(旧街道に建てられた碑)

2015年8月12日 10時46分

 自由研究①で記載した旧街道には、いくつかの石碑が今も残っています。
 今回案内していただいた中には、まず、こんな物がありました。
 
 これは、自由研究①で記載した追分の道標近くに立つ塔です。前面には、「廿三夜塔(にじゅうさんやとう)」と彫ってあります。今まで目にしたことのない塔でしたので、調べてみました。それによると、これは、月待塔(つきまちとう)とよばれるもので、 特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行いその記念として造立した塔であり月待信仰塔ともいわれるものだそうです。尚、月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事だそうです。室町時代には既に行われており、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したそうです。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられるそうです。私が生まれ育った会津にも所々に残っているということで、もう何度か目にしているのかもしれません(見ようとしない眼には、何も見えません)。新舘の廿三夜塔も江戸時代に建てられたものでしょうか。
 旧街道を新舘から大倉方面に進むと、藪の中に2つの碑が建っています(ただ、道を歩いているだけでは見えません。面川さんが、「ここに碑があるんだ」と草をかき分けて見せてくださいました。)

 前面に「寛政七年 秋葉大権現 乙卯十月日」とあります。秋葉大権現とは、
「火除けの神」だそうです。

 この碑の横には・・・

 前面には、「享和元年 辨才天供養 辛酉十二月日」とあります。前述した秋葉大権現の碑が、寛政7年(1795)、この辨才天供養碑が享和元年(1801)ですから、この碑は、6年後に隣りに建てられたということになります。共に江戸時代後期の造立です。辨才天は、辨財天、辨天等とも称され、音楽、知恵、財物、また、水の神として信仰された女神ですが、この碑を造立した当時の人々の願いや思いは、何だったのでしょうか。

田村市地区音楽祭に向けての会場練習

2015年8月11日 16時00分

 今日、8月11日(火)は、地区音楽祭に向けての会場練習の日です。
 保護者の皆様には、楽器運搬、大変お世話になりました。
 
 ※楽器は、保護者の皆さんの自家用車で運搬していただきました。
 
 ※会場(田村市文化センタ―)への楽器搬入、セッティングも保護者の皆さんにお世話にな
 りました。
 
 
 午前中、1時間ほどの練習でしたが、演奏はもとより、入退場の仕方など一生懸命取り組むことができました。
 
 地区の音楽祭は、以下の日程・場所で行われますので是非、お出でください。
  日 時 平成27年8月21日(金)
  場 所  田村市文化センター
   ※ 13:30頃発表予定です。
 

かき氷、はじめました・・・

2015年8月10日 15時57分

今日も、合奏部は朝から練習をがんばっています。

 
   そんな合奏部の子どもたちに差し入れとして・・・なにか、楽しめるものはないかな?
 と考え、結局「かき氷」にしました。
 練習の合間の休憩時間を活用して、自分たちでかき氷を作って、食べました。
 今日は、いちご味だけでしたが、好評につき来週は、新たな味を加えることにしました。
   

校長の自由研究②(日渡神社)

2015年8月10日 14時04分

 下の写真は、新舘地区にある日渡神社(ひわたりじんじゃ)です。
 
                    (写真は、日渡神社参拝のしおり より)
 この神社のはじまりは、平安時代【天喜二年(1054年)】日渡山と称されたこの地に、暗夜光明を放つ奇石が飛降したことから始まります。この石を蚕種子石(こたねいし)として崇め、堂宇を建立しました。当初は、満願寺の観音堂であり、本尊は千手観音菩薩(慈覚大師 作)。江戸時代は、観音巡りの場所でした。その後、明治二年(1869年)の廃仏毀釈により、日渡神社と改称されました。堂内には、絵馬「馬籍の図」二面が奉納され、その絵馬には、江戸時代後期の三春領西北部26村で飼育されていた馬、880余頭が飼い主名と共に描かれています。当時、馬産が如何に盛んだったかを物語る資料でありまた、そこには、良馬繁殖を願う人々の心が現れています。この絵馬は、田村市指定の有形民俗文化財に指定されています。
 
    絵馬「馬籍の図」 嘉永二年(1849年) 絵師 雲龍齋移岳  
         (写真は、日渡神社 参拝のしおり より)

  さらにもう一つ、神社正面に掲げられた「算額」です。最上流和算家佐久間庸軒のもとで、新舘からも多くの人たちが和算を学んでいました。この算額は、明治21年(1888年)に奉納された物ですが、14名による奉納の内6名が、新舘の人です。文字、彩色とも判断しにくくなっていますが、11題の算題からなっています。この算額も田村市有形民俗文化財に指定されています。)
 
        (神社の正面に掲げられた算額 手前の龍の彫刻もみごとです。)
  
  この他、神社境内には、この神社のお堂をつくる切っ掛けとなった奇石「蚕種子石」があります。この石は、養蚕の仕事が始まる時期になるとその表面に蚕の卵のような模様が浮き出るということでした。養蚕豊饒の願いを込めて、人々がこの石をお参りしたのでしょう。
今では、この瀬川地区で養蚕を行っている方は、1名となってしまったということです。
 
 (日渡神社蚕種石、「蚕種神」の文字が彫られています。2枚目の写真は、写真を赤ペンでなぞった物です。2枚を見比べてください。)
    
  (文章は、「日渡神社参拝のしおり」「田村市教育委員会の説明看板」、面川氏のお話より記載しました。)

校長の自由研究①(旧街道北ん坂と道標)

2015年8月7日 18時25分
 8月3日、学校近くの面川氏に瀬川地区を案内していただきました。

下の写真は、旧相馬街道の追分(分岐点)に建つ供養塔を兼ねた道標です。

 この道標の側面には、「左、二本松、川又」「右、百目木、相馬」とあることから、左の道を行くと二本松、川又へ、右の道を行くと百目木、相馬へ続いていたということが分かります。また、前面には「南無阿弥陀仏」と彫ってあります。「天明八年戊申十月吉日施主九人女」とあることから二百十数年前の天明の飢饉の際の犠牲者を供養するための塔でもあることが分かります。
 旧相馬街道は、自由民権街道とも呼ばれ、自由民権運動の盛んだった三春町と相双地区を結ぶ重要な街道で、当時多くの自由民権運動家が行き来したといわれています。街道筋である船引町には、多くの自由民権運動家がおり、その数は、県内一だったということです。しかし、
相馬、百目木への道は、いまは、草に覆われ、わずかにその面影を残すのみです。
  
  (道標付近の説明書き   掲:新舘行政区文化財保存会)