瀬川っ子 頑張っています!

ノート・レポート 瀬川と自由民権運動②

 1月6日の本ホームページで、この瀬川の地は、旧相馬街道筋であったことや河野広中の三春町に隣接していることなどから自由民権運動が盛んな土地であったという記事を掲載しました。学区である大倉地区には、大正館という自由民権の運動家が集まる場所もありました。しかし、盛んだった自由民権運動も明治15年の秋に終焉を迎えます。そこにもドラマチックな話が残っています。
 当時、自由民権の運動家が集まっていた大倉地区の大正館に安積戦という者も出入りしていました。表向きは自由民権運動家という事であり、鹿又小学校の教員でありました。しかし、実は彼は、自由民権運動家の動きを好ましく思わない当時の警察から送られたスパイであり、自由民権運動家の動きを探ってそれを報告していたという事です。同じく大正館に出入りしていた門鹿小の教員であった大河内英象(移出身)や西向小の二代目校長であった栁沼亀吉(要田出身)らは、同じ職業と言うこともあり一切彼を疑うことは無かったという事です。そして、瀬川地区の自由民権の運動家は、明治15年秋、会津で喜多方事件が起こった際に、安積の勧めで会津に応援に赴き、そこで、騒動に加わったということで一網打尽となってしまった、また、参加していなくても見せしめとして捕らえられたという事です。
 6年生は、歴史学習があります。そうした中で、この瀬川の地にも、国会開設に向けて、一生懸命に活動した人々がいたことを伝えて行かなければと感じています。
 (本記事の内容は、船引町史 通史編2による物です。)